マカロニ。

おたく魂をぐつぐつ煮込んで

生きるも死ぬも、自らの手で。 Anonymous Gods

神に何を祈ろうか。

 

明日いい事がありますように。

ごはんを美味しくたべられますように。

美しい木漏れ日を浴びられますように。

あたたかい布団で眠れますように。

 

あなたが、幸せでありますように。

 

 

サラサ

美しくあることを求められ、応えようと努力し、美しくあり続けた。しかし世間も母親も彼女の美しさに答えてくれなかった。恋人も「きれいだよ」と声をかけることもなかった。

だから彼女は自らの手で美しく人生の決着をつけようとした。運命のDIY。生き続けなければならない、という呪いからの脱却。

他人を通してではなく、自分で自分を愛して美しく幕をひいた彼女の最期は幸せだったと思う。美しさは散る瞬間の画ではなく、フレームの外にある。彼女の美はフレームの外で生き続ける。

 

ナオ

大切なものを大切にすること、を大切に生きてきた。

自分が大事にされなかったから。

でもそれを他社に投影せずに、自分の傷を自分に刻み続ける。大切なものは大切に、自分の棘で傷つけないように、だから距離をとる。サラサが求めた愛の形とは違っていたけれど、ナオはナオの理論でサラサを愛して大切にしていた。

一方自分自身に対しては自罰的で、負の連鎖を自分で断ち切らんとばかりに自身に刻む。でももう彫るところがない…永遠の痛みに限界を感じ始めた頃にアオイが現れ「新しいカンバスを」、と腕を差し出す。サラサとは対象的に、ナオは他人を通して自分を愛することを知る。

 

カスミ

世界の幸せの形が、この子に当てはまるだろうか。

世界に愛されなかった(と感じている)サラサに出会うことで、これから産まれてくる命が出会う世の中の不条理に、そして不条理が引き起こす(かもしれない)結末に気づいてしまった。自分が「かわいそう」な側にいて、それ故にこの子が不条理に出会う機会は「ふつう」より多いのかもしれないことにも気づいてしまい、この子の幸せは「産まれてこない」ことなのではないか、と。

感受性の強い彼女は揺らぐ。反出生主義的な迷いを抱えたカスミは、アオイの言葉で「フレームの外」に向けられる。ぎゅっと絞った焦点のその外側がきらめいていることを思い出す。

 

アオイ

彼女については、何を書いていいのかわからない。今という社会を生きる上で、アオイは私にとっての理想だ。

カスミを愛して、彼女の才能を愛して、オフィスごっこなんて揶揄されながらも彼女との幸せのために働いて、色々なものを飲みこんで。

「わたしたちはこの社会よりもマシ、かわいそうじゃないよ。」

この言葉を言えるまでに、言うために、彼女はどう生きてきたのだろうか。

様々な理不尽や不条理のなかから、美しいものを見つけ出す。大切にする。当たり前のことだけど、社会や日々に揉まれるなかで人はその煌めきをすぐ忘れてしまう。なぜこんな石ころを拾ったのかも忘れてしまい、手放してしまう。

でもアオイは丁寧にそれを磨き続けている。硬い黒い石のすきまからのぞく光を信じて磨いて、ざらついた岩石を美しい宝石に磨き上げて、それを他者と共有する。ひとに見せられたがたついた原石も「もう見たくなーい」とぼやきながらも尊重する。

アオイの根底にはとてつもなく深い慈愛がある。きっと社会や理不尽や不条理に絶望しながらも、あきらめずに愛そうとしているのだと思う。タトゥーを彫りにいったのも、産まれてくる子への誓いというか、十月十日のふたりぶんの血の巡り、陣痛のかわりを刻もうとしたんじゃなかろうか。

 

アオイをみていて、「親に求められるもの」ってなんだろうとも考えた。両の親がそろうこと?それは必須条件じゃない。母性と父性がそろうこと?それも男と女でなくたっていい。“母“性・”父“性と冠がついているけれど、必要とされるのは性的区分ではなくてきっと愛情の要素のことだ。そこが揺るがなければ、どんな家族のかたちでも「かわいそう」なんかじゃない。

 

フレームの外を愛するために

「生きづらさ」という言葉が散見されるようになった。今まで誰かの快のために犠牲になっていた人たちが声をあげるようになった。

生きづらい、いやだ、という声はさらにネガティブな反応も生む。捻じ伏せんとする波の重さにまた息ができなくなりそうだ。

 

濁流にのまれ流された地を裸足で歩く。尖った石で足の裏は血だらけ、いっそ歩くのをやめてしまおうか。そう俯いた先に微かなきらめき。それを丁寧に拾い握りしめて、また歩きだす。道の先にはまだいくつもの光がある。

 

そうやって生きていけたら。

いつかあの濁流も、皮膚を破る石ころも愛せるだろうか。


どうやったらそんな生き方ができるのだろう。

アオイと話がしたい。

私も彼女に、優しくされたい。

リフレインに塗る薬 ーエリア51「ハウス」―

白く四方を囲まれたマイ・ハウス。

そこで繰り広げられる、生活という名のリフレイン。

 

www.area51map.net

 

 

リフレイン

生きていかねばならない。食べなければいけない。

そのために働かねばいけない。

生かし続けなければいけない命が目の前にある。

この子の生殺与奪の権は私にある。しかし選ぶ余地はない。

生かし続けなければならない。食べさせなければいけない。

そのために働かなければいけない。

私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

世話をしてやらなければいけない。手をかけてやらねばならない。

そのために働かなければいけない。

この子の意志を尊重してやりたい。

そのために働かなければいけない。

私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

世話をしてやらなければいけない。手をかけてやらねばならない。

上下右左、うまく付き合っていかねばならない。

私の夢も叶えなければいけない。

しかし私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

世話をしてやらなければいけない。手をかけてやらねばならない。

この子の描くものをちゃんと見てやりたい。

私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

上下右左、うまく付き合っていかねばならない。

頭を下げなければいけない。

私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

この子の事を理解しなければいけない。

私は頑張らなければいけない。

ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、

これは身をちぎった痛みだろうか、それとも蓋をした腹の内の鬼が振るう金棒か。

この子と私の生活を遂行しなければいけない。

上下右左、うまく付き合っていかねばならない。

散らかった部屋を見られてはいけない。

大丈夫なので。大丈夫ですから。

 

チチ「ママと走るの?」

ママ「そう。いいでしょ?ほら行くよ!」

 

この子は私と走っていかなければいけない。

走らせなければいけない。

この子は私と、この子、この子は、私がこの子と、私は・・・?

 

チチ「太陽と目が合ったね」

ママ「太陽に目はないよ」

チチ「この時間になるとね、太陽とお話しできるんだよ」

ママ「なに言ってんの、そんなわけないでしょ」

 

頑張ってるから。普通に生きてるから。

どう見てるのか知らないですけど、これがうちの普通なんで。

 

 

ママ「頭をよぎっていたのは、自分のことばっかりだったんです。」

生活をすること、日々のリフレイン。

その中で持つものが増えていけばどうしたって優先順位づけが必要になってくる。

子を持てば、子の生命を維持し、社会で生活できるように育てるということが必然的に最優先となる。子は私なしでは生きながらえない。それは産んだものとして、生活を一にするものとしての責務だ。子の成長に喜びを感じながら、生活を遂行してゆく。

 

一方で、”わたし”がいつもその姿をうしろから見ている気がする。

気になるコンテンツとか、やりたい事とか、着たい服とか、やりたい仕事とか、できたであろう事とか、自分の半分を分けた子なのにわけわからんなコイツ、とか、他人からの視線とか、Twitter見たいなとか、いつまでこれ続くのかなとか、いろんなものを両手いっぱいに抱えてじっと私を見ていて、不意に私の眼前に抱えてたものを置きにくる。少しの罪悪感とともにそれに手を伸ばす。ごめんね、一瞬だけだから。

泣き声。

ああ、戻らなきゃ。

罪悪感は少しのいらだちとなって小指にからむ。寝顔を見ながら、さっきの一瞬でこの子を見ていればよかったと、やっぱり落ち込む。でもそんな私を”わたし”はじっとりと見ている。その視線をずっと突き放すことができない。

 

たいてい「何か」が起きるのは、”わたし”と目を合わせてしまっている時だ。

最優先事項はわかっているはずなのに。”わたし”より優先すべきことがあるのに。あの一瞬でもっと気を配っておけばこの子は泣かずにすんだのに。ヒヤリハットですんだ事もすまなかった事も、ぜんぶ私と”わたし”のせい。

 

チチ「ううん、足がない。チチの足がなくなった。チチの足どこ?」

 

血の気が引くとき、ざあっ、という音が私を”わたし”から引きはがす。

その音がすると勝手に身体が対処に動く。本能というものはよくできている。でも理性を持ついきものへ進化したならば、そもそも本能が動くような事態にしちゃあいけないのに。なぜ理性は”わたし”を排除しきれないのだろう、そんなことを考えながらきびきびと手当のため動く私の手を”わたし”は眺めている。またひとつ言えないことが増えていく。

 

 

「気持ちに塗る薬は、気持ちしかない。」

私たちはリフレインする生活のなかで、どうしてもやせ我慢をしてしまう。

やせ我慢というよりも、薬の施しをうけることで、必死にちぎってきた身の欠片の意味を否定されてしまうような気がして、大丈夫、普通なんで、必要ないです、とかぶりをふってしまう。長女の出産後、振り返れば私はあきらかに産後うつだった。風がふいただけで絶望にさいなまれていた。吐き戻しの染みだらけのよれた服に身を包み、いやにぎらぎらした目で「夫も子を見てくれますから、大丈夫です、悩みなんてないです!」と言い張る私。訪問してきた市の保健士は、何か言いたげにしつつも書類の「問題なし」の欄に〇をつけた。「ダメな母親」になりたくなかった私は、それ見て自分でひとつ退路を断ってしまったことに気付くも、その問題なしの〇を自らの十字架として背負うことで妙に安堵したのを覚えている。その後は結局、家族も自分自身も傷つけてボロボロになったけれど。

 

ノゾミ「気持ちに塗る薬は、気持ちしかない。」エリア51「女ME」より

 

他人に薬を塗ってもらわないと治らない傷がある。

塗り、塗られ、ぬぐって、また塗られ。

やさしく効く薬、

効くけどしみる薬、

ありがたいけど検討違いな処方の薬。

 

厄介なのは、塗った方がいいのはわかっているけど触れられたくない、という無意識の意地。他人に傷に触れられるのは痛い。触れられるくらいなら暑くても長袖を着て傷を隠してしまえ、そうやって傷を化膿させてしまう。周囲は薬箱を携え声をかけてくれているのに。

 

チチ「こっちはお日様だよ」

ママ「いいの!見つけてもらわないとね!」

ママ「お醤油、なかったら借りればいいし、縁側、なかったらピンポンするの。そうするぞ、明日から。」

袖をまくり、傷を見せる勇気。ママはその決意の姿で私に薬をぬってくれた。他人に薬を塗ってもらわないと治らない傷がある。治すには、まず傷を見てもらわなければいけない。へんな意地は捨てて、”わたし”ごと傷をさらさなければ、いつまでも息はできない。しみたって、変な臭いがしたって、一応薬は薬だ。薬が合わなかったら合わないと言えばいい。違う薬がないか一緒に探してもらえばいい。そしていつか私が薬を塗る側にまわったら、しみない薬か、変な臭いがしない薬か慎重に見極めたいし、傷に触れる手も優しくありたい。突き刺す西日ではなく、穏やかな木漏れ日となれたなら。

 

チチ「がんばれーっ!ママ、がんばれーっ!!」

こんなにそばにも、薬を塗ってくれる存在がいた。

転んで、薬を塗って、塗られて、立ち上がって、走る。この世に産まれてしまったら、みんな走り続けなければいけない。

チチ「ママと走るの?」

ママ「そう。いいでしょ?ほら行くよ!」

二人三脚、がどんどん増えて、ママが命を果たしたあともチチと共に走るひとが一人でも多くあってほしい。太陽に見つけてもらいながら、自身も太陽となって生きる。転んだ誰かのために振り向いた時、きっと虹は見えるのだと思う。

 

 

美しかったもの

ともすれば苦すぎるリフレインを飲み込めたのは、この「ハウス」がとにかく”美しかった”からだと感じている。

良薬口に苦しというけれど、人は初めて見るものを口に入れられたとしても、すんなりのみ込むのはなかなか難しいが、”美しかった”なら、薬をつつむゼリーのようにのどごしの良いものになる。それが、多くの人に伝えていくということなのだと身をもって痛感した。

白い線と黒の子

「ハウス」内と社会を分かつ線、それを幾度かうごかす黒子たちは社会にうごめく誰かの生活の一部。寸分違わず引かれる線と、毎朝投函される新聞、届く郵便物。否応なしに流れる社会の視覚化。

ハウスで虹を描くチチを照らす光、どこか靄がかかったような井戸端会議の廊下の蛍光灯、お前たちを逃がすまいと射貫く西日、雨の冷たい湿気、心をかき乱すテレビの三原色、浸食する鬼の青い瞳、隔絶された「ハウス」の壁、と意地をとりはらっていく白。

 

止まらない身体

走る、回る、飛びのる、手を引く、よりかかる、投げ飛ばす。

絶え間ない動きとぶつかりは生活や育児との取っ組み合いそのもの。二人の汗とあがっていく息づかいは、観客に確かなものとして伝播してゆく。

 

チチ/小松弘季

舞台にあらわれ、虹を描く手のひらと視線。その研ぎ澄まされた集中力で場を掌握し、チチが見ている世界、チチが描こうとしているものを表現し観客へチチが何たるものかを一瞬でわからせた。あの一瞬でチチは観客の”わが子”となり、観客を「ハウス」へと取り込む。とても見事だった。一番最初にチチの見た虹がとても綺麗だったことを直感的に理解できたからこそ、私たちは薬箱を手に取る勇気を持てたのだ。

ママ/天野莉世

立て板に水のようにママから紡がれることば。日常の脳内で繰り広げられる自己対話や納得して進むためのロジック、他者への小言など、私の感情のるつぼが板の上で舞っているかのよう。だれもが自分をママに見出していて、一緒に走って転げまわって、あふれ出てしまった感情が動かす指先と、涙を流しながら「お願いだから、泣かないで」と声を震わせる矛盾した台詞に共鳴した。私たちはママとともに”生きた”と思う。

 

 

これからもリフレインは続いていく。続けていかなければいけない。社会と、生活と、家族と、私と、”わたし”と取っ組み合って傷をつくったとしても、その傷を恥じる必要はない。傷を見せるのは勇気がいることだけど、きっと誰かが薬を塗ってくれる。私もいつか誰かに薬を塗ってあげられるだろうか。いつかのその日のために、ちぎって投げた欠片を大切に集めながら生きていきたい。

かながわ短編演劇アワード2022 〜公開審査会を見て〜

かながわ短編演劇アワード2022、2日目の演劇コンペ&公開審査会を観てきました。

グランプリのMWnoズ、観客賞のエリア51、おめでとうございます!!!

また、かまどキッチン・じゃぷナー観という初めましてのカンパニーの作品を観れたこと、エンニュイさんを知れたことを嬉しく思います。コロナ禍での開催に尽力してくださった皆様に感謝します。

 

…以下は現場で公開審査会をみて、いち観客として感じたことです。

結果についてではなく、結果に至るまでのプロセスについての話であるということを念頭に読んでいただけますと幸甚です。

 

 

採点基準のあいまいさ

演劇という主観や感性に頼る定性的なものを定量的に測って「いちばん」を決める作業は非常にむずかしく、審査員みなさん胃がねじ切れるような思いだったと存じます。

だからこそ、あらかじめコンクールのゴール、「いちばん」の定義を主催側は明確にしておくべきだったのではないでしょうか。岡田さんに判断基準を問われ、主催として「将来性ある団体を送り出したい」という意図が示されたのは後半戦に入ってから。その「将来性」というのも、各カンパニーの持つパッケージでののびしろを指すのか、それとも演劇のあたらしい形の可能性のことを指すのかが明示されず、審査員の中でも統一されることなく両極にふれていました。定義が明確でないが故に、迷ったりコメントの焦点をどこにあてるかがブレる。挙句の果てに、最終投票時にかまどキッチン2、MWnoズ2と票が割れた時点でエリア51に投票しようとしていた岡田さんに対し、揖屋さんが

「(時間がないので)決めていただけると助かります」

と促すのは非常に傲慢だと感じました。時間が有限なのはわかります。だからこそ効率的に、有意義な議論を1秒でも長くするために、主催は採点基準について事前にもっと練るべきだったと思います。

 

また、審査の中で加点方式と減点方式が混在していたのも気になりました。

特にかまどキッチンとエリア51に対しては減点方式が強く作用していて、期待の表れと言えば聞こえはいいですが、それならば全てに対し方式を統一すべきです。これも明確な採点基準がなかった故の事だと考えます。

 

「社会的な作品」とは

エリア51の作品「ハウス」はシングルマザーと障がいを持つ子に焦点をあてた作品でした。それゆえか「社会的な作品」という形容が多く見受けられました。でもそれを言うなら反戦や社会からの孤立を訴えるじゃぷナー観の「エン EN」だって、コロナ禍で生活と創作意欲と演劇に葛藤するかまどキッチンの「あ、たたかい(の)日々」だって社会的な作品のはずですが、その2団体へは一切言及がありませんでした。なぜエリア51にのみこの言葉が向けられたのでしょうか。

 

笠松さんがコメントの中で、

「社会的な訴えをしたいのであればもう演劇ではなく社会運動としてやったらどうか」

という旨の発言がありました。

なぜ、社会的なテーマを演劇でやってはいけないのでしょうか。共鳴するものを見つけて、創作意欲がわいて、それを作品に落とし込んで、発信して、観客へ提示する。それは社会的、とされるものではないテーマを作品にする過程と同じではないでしょうか。社会のなかで、生活のなかでみつけたものを自分というフィルターを通して、演劇というツールに落とし込む。なぜ社会的、…この「社会的」というカテゴリもハテナですが、このような題材について演劇を通すことを否定されてしまうのでしょう。基本的に私は「なるほど、あなたはそういう考えなのですね」と他者の意見を受け止めるようにはしているつもりなのですが、今回の、この演劇コンクールという場で、審査員という立場で、その発言は、言っちゃあならんでしょう。創作意欲の根本をへし折るこの発言については、はっきり「それは違う」と主張させていただきます。

 

また岩渕さんが後半で

「社会的課題がたくさんある中から、ピックアップしてしまう形になるとすると、どこまで自分たちの中で消化してくか?というの聞きたいんですけど、でも(討論会ではないので)聞けないんですけど、そこがまだ若い人たちだと思うので…」

エリア51に対し気になることとして発言されました。それに対し岡田さんが一般論で言いますけど、と前置いて

「様々な問題が自分の前に等しく等価に置かれてて、えーっとじゃあ今回はこれ、なんてピックアップして扱ってる作り手なんていないですよ」

とピシャリと返してくださったこと(&前述の笠松さんコメントのあとの「社会運動のほうでやれという意見は気にしなくていい」というコメントも)は救いになったと思います。岩渕さんは編集者という選ぶ/編纂する立場の方なので、作り手との視点の違いゆえにかの発言に至ったと思うのですが、参加団体との質疑応答の形をとっていない審査会で、あの流れは酷だと感じました。

 

芸術を評するのは難しい。

私も感想という笠を着てふだん好き勝手なことを書いていますが、何かの機会で評することがあったら、気を付けていかねばならないと強く思いました。

 

さいごに

繰り返しになりますが、芸術を採点するのはとても難しい。だから今回のような採点基準の議論は、悲しいかな「あるある」のひとつです。

 

以前、知人が出品した別の界隈のコンクールでも、同じような曖昧基準・スポンサーの意向により筋がのみ込めない審査プロセスとなってしまいました。

結果、知人は以降の創作意欲のベクトルが大きく変わってしまいました。あなたの作品はここが素晴らしくて、ここが良かったよと私なりに声かけをしましたが、いち観客である私はただただ無力で、創作が死んでいく過程を見ているしかできませんでした。

 

今回、この記事を書くか迷いました。

今回も、私は無力な観客です。

でも、書き残しておこうと思いました。

 

 

必ずカンパニーの名前を呼び「お疲れさまでした」と声をかけてからコメントに入る徳永さん。カンパニーと作品へのリスペクトを感じ、私も普段のふるまいを正そうと思いました。

「これで、絶対にやり続けなければいけなくなりましたね、がんばってください!」と、呪いの仕上げで発破をかけ、「経験談ですが、悔しい思いの方が100万円よりも価値があると思っている」と参加団体にリボンをかけたスズキさん。軽やかな論評が素敵でした。

 

あらためて!

グランプリのMWnoズ、観客賞のエリア51、おめでとうございます!

かまどキッチン、じゃぷナー観、エンニュイとの出会いを嬉しく思います。

どうかこれからも、創作の芽吹きが絶えませんように。

皆さんの作品をまた拝めますように。

本当に、楽しい2日間をありがとうございました!!

かながわ短編演劇アワード2022 〜1日目雑感〜

かながわ短編演劇アワード2022 演劇コンペ1日目を見てきました。

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1日目の感想をザクザク書いていきます。

 

※記載は上演順

※団体名「タイトル」

 

 

かまどキッチン「あ、たたかい(の)日々」

ミリな事象、自分内面をムクムクふくらませていく。

実際に7つのSNSアカウントを使い分けているという衝撃の掴み(掴みというか事実なんだけど)、それを板の上で肉を纏って展開させるという試み。属すコミュニティに合わせ、自分の中の倫理観や社会性や欲望を切り分けている、そしてたまにそれらの一つを最悪な気分で全消ししたり。そんな内なる葛藤というか、もやもやとした自己会話をさらけ出してくれる胆力がとても魅力的だと思った。オタクであること、演劇をすることにモニョモニョ自分どうしで言い合っていたけど、こんな言い方はあれだけど存在がとてもエンタメというか悩んでる様が本当に宇宙だし、ビッグバンに祈らずともとても優しい方とお見受けしたので、児玉さんには好きなこといっぱいやって見せ続けてほしい。

演出としてはモニタとスクリーンに情報を出していくのが飽きなくて楽しい。ただ情報量が多いので視線がちらばってしまい、瞬間的に情報の取捨選択をしなければいけない場面も。アカウントも7つあったと思うんだけど、メインとVtuberとエロアカウントが印象つよくてその他ももっと観たかったな。個人的にはスクリーンに流れた児玉さんのプロフィールをじっくり読みたいのでデータほしいです(←好きになってる)

 

 

エリア51「ハウス」

まず役者が圧巻。

小松さんの一発目の所作での集中力のすさまじさ。あれで場を掌握したのすごかった。天野さんのタフさ。ジェットコースターのような感情に加え、数々の奥様シリーズを演じ分け(一瞬で各奥様のひととなりがわかる)、手話、なによりチチとの対峙とバッサバッサとさばいていく姿、そこに無理がないのがすごい。2人の身体の絡まりが、育児と生活のとっくみあいそのもので、後半息が荒くなるのも良い演出となり、でもセリフも動きもブレなくてすごかった。すごかったって何回も言いたい。撒かれたチラシに足をとられやしないかと少し心配したけど、少しのスキマを的確に踏んで駆け抜けてって杞憂だった。すごかった。

黒子の劇中での転換もスムーズ。芝居が継続する中ぬるりと現れ場を作る職人芸かつ、じわっと芝居にも入ってくる。NHKのお給料もらうとこ好き。光の使い方がとてもうまく、空間に感情を充填して媒介してくれる感じが良かった。なんだろ、光のLCLみたいな。最後ママがピンポンしようと思えるきっかけをもうちょい深堀してほしかったけど、芝居でそれに説得力が出てたからいいか。脚本については書きたい事いっぱいあるので後日別記事にします。

 

 

MWnoズ「ROBIN」

「境界線はわからないけど、いつの間にかやらなくなったことって、あるよね」

あるよね。

人前で鼻くそほじるとか、這いまわる蟻を丁寧に1匹ずつ潰したりとか、理想の自分を妄想したりとか*1、雨の日に傘をささずに帰ったりとか。子ども→大人での変化もあるし、昨今のコロナ禍も相まって無遠慮に他人の身体に触れることもなくなった。そういう、あるよね~、って言いながらもすぐには思い出せない、記憶の中を拾いあげていくみたいな、夢の中での探索みたいな感覚を、ダンスを通してイメージを伝えてくれて面白かった。惜しかったのは皆さん声が細く、濡れヒヨコ・パタリロキャシャーン…あともうひと方の役名が聞き取れなかった。私は濡れヒヨコ推しです。

あと放課後の土手とか、チョ待てよとか、モノマネとか、こういう共通認識ってどうやって形成されるんだろうなと考えながら見てた。チョ待てよはもはやインターネットミームの一種だけど、放課後の土手を経験してる現代人ってどれくらいいるんだろ。私は経験してない側の人間だけど、「放課後の土手」ってワードですぐポカポカした感じになるんだからすごいよなあ。

 

 

じゃぷナー観 Japnakan 「EN エン」

エン、円(まるい=球)、縁。

「ことば」、にフォーカスし、多数の言語を滝のようにあびせることで、伝達の手段であるはずの「ことば」の意義と「わからない」を問いかける。ズールー語タイ語を波状発信することで、観客にも「わからない」を体験させていく面白い試み。

アフリカ出身のBonoloさんのズールー語のグルーヴ感、タイと日本のミックスであるShogoさんの境界線の曖昧さゆえの葛藤、言葉を交わしているはずなのに孤独である大和なでしこちゃん、三者のわかる・わからないをことばのキャッチボールの応酬でみせる。起承転結でいうところの”起”で”結”が見えちゃったことと、裸一貫ならぬ”ことば一貫”で挑んだがために視覚的に単調だったことがちょっとしんどかった。四番目の上演で観客の集中力も落ちちゃってるタイミングだったしね…Bonoloさんの夢の話からアフリカでの紛争(そう、日本に利害があるからこそウクライナ情勢をみんな気にするけど、紛争は世界中で起きている)とKAATを繋げるのは上手いと思ったし、馴染みのない言語でも案外わかるもんだなとか、あっココは全然わかんないやとか、試みはとても面白かったので、別のアプローチでも見てみたいです。あと大和撫子ちゃんの背景が察することはできたけど察するしかできなかったので、なんでそんな最初っからキレちらかしとるん…とちょっとぴえんでした。撫子ちゃんがちゃんと笑える日がきますように。

 

 

エンニュイ「きく」

今回コロナ感染により残念ながら辞退とのこと。

楽しそうに稽古をしている姿をTwitterで拝見していたのでとても悔しいかとは思われますが、まずは感染された方がはやく回復されますように、そしてまたどこかで「きく」を見れるのを楽しみにしています。

 

 

おまけ:KAAT 大スタジオ

KAATのアトリウム大好き~!天井高くて解放感あって来るもの拒まずな感じ。併設カフェは以前はランチバイキングやってて好きだったんだけど、さすがにバイキングはなくなってたな。

椅子が硬くてほぼ直角で腰にはあんまり優しくなかったな…ハモ騒動やmuro式.で来た時は感じなかったんだけど、ホールとスタジオでは椅子の仕様もちがうのかな。

今回は席数半減=ひとつ飛ばしだったのでゆったり快適に見れた。傾斜もかなりあるので、フルキャパでもストレスなく見れると思う。

スタッフさんの案内もホスピタリティまごころたっぷりでLOVE。お手洗いも数あってきれい。最高。

そういやNHK横浜放送局と同じ建物なので、今日の公演でもNHKネタ入ってたな。アトリウムに大河とか朝ドラのシーンがドーン!と流れるビジョンもあるので、好きな人は楽しいかも。

 

明日は2日目、公開審査会での講評もたのしみです!!!

配信あるよ!!!3/27 12:00から!!

www.tvk-kaihouku.jp

*1:ごめん私は今でもやるけど

いつか、糸を結ぶ日まで。―舞台「粛々と運針」

stage.parco.jp

2022/2/13 PARCO劇場にて。

 

 

私として、母として

人生は選択の連続で、その選択で分岐した世界に進んでしまったら別の世界線に行くことは叶わない。いつだって悩んで、流れに身をゆだねるしかなかったり、決断したりして人生を進めていく。人生という時計の針は止まらない。でも人の心はどうだろうか。

 

長女・次女を妊娠したとき、真っ先に考えたことは「上司になんて報告しようかな」、だった。

生理がずいぶん遅れて3人目ができたかもしれない、となった時、「今は産めない」と思ってしまった。

 

私にとって出産は「女に生まれたからにはやってみたいこと」というToDoリストのひとつであり、検査にて卵子の在庫が少なく子を産むなら早く産まなければならない、というのがもともとわかっていたので、子どもを設けるなら早く決断しなければいけない…という理由から同期たちよりずいぶん早く産休・育休を取得することとなった。いくら制度が充実している会社であるとはいえ、第一志望の業界に入れて数年、期待をかけて育ててもらい、しかしまだまだ半人前の身分で「お休みをください」、と言うのはかなり勇気が必要だった。

そして3人目疑惑*1は育休明け初の大きい仕事がなんとか軌道にのりはじめたタイミング。同期たちはずいぶん先に進んでいる。よし私も!この会社での志もやりたい事もある!遅れを取り戻せるようにがんばるぞ、と新規部署立ち上げメンバーになるも、本当に何もしない・してくれない上司2人の分まで時短勤務の身で仕事をこなし、やっと光が見えてきたタイミングだった。

サラリーマンなど代わりはいくらでもいる。私がこの仕事を抜けたところで誰かがうまくやり遂げてくれるだろう。

でも私は?私がやってきたことは?私がやろうとしたことは?私が私にわたすための勲章は?

 

命は尊い

それは揺るぎない。

「目と心。奪ってみたいわ。」

奪ってみたいも何も、産声を耳にした瞬間から全てを奪われてしまうのだ。君と私の本能の共鳴。人として最初で最後の「わかり合える」瞬間なのかもしれない。

 

命は尊い。それは揺るぎない。

子どもたちを産んだことに後悔はない。まったくない。

ただ、女として生まれていなければ、とか、仕事一本でやってきていたら、とか、ヒトはなぜ卵でうむ方向に進化しなかったのか、とか、考えないわけでもない。

 

命という眩しい光を浴びる私の後ろには、長い長い影が伸びる。

やがて地面に焼き付いた私の影はそこにとりのこされ、先に進んだ私自身も、影がちぎれた足のうらがチクチクと痛む。

 

ヒトがヒトを産むにはたくさんのリミットがある。

背後でチクタクと刻む秒針が判断を迫り、余計に息が苦しくなる。

どの道に進んでも、必ず何かを手放すことに変わりはない。どちらも正解で、どちらも悪くない。はず。なのに。あのとき置いてきた影の行く末が、どうしても気になってしまう。彼女は別の世界線を無事に歩めただろうか。今元気にしているだろうか。

 

「キャラ物が入り込むのが嫌なのも、お母さんをやれてしまうことが不安なのも、ぜんぶ本当のことなのにどうして信じてくれないの」

「どうしてその選択を後悔するって決めつけるの!」

「苦しんどるやろ!」

沙都子はおそらく自分の心の内を見せるのが嫌で、見せる・見せないの線引きがしっかりしている。その線を飛び越えることはきっと彼女にとって非常に苦しいものだ。應介がそれをちゃんと理解していて、齟齬に気付けて、落としどころがまだ見つからずともちゃんとわかって、会話をしようとしてくれる夫でよかった。應介といっしょなら、沙都子はどんな選択をしても置いてきた影とうまく付き合っていけると思う。私も当時、自分ひとりでジリジリ悩まずに話を聞いてもらう勇気を持てばよかった。命に対して後ろ向きな発言をしたら落胆されるだろう、軽蔑されるだろうという恐怖があった。けれど、ともに人生を果たす相手くらいには心の内を明かしてしまった方がきっと生きやすいし、相手もまだまだ見せていないカードを見せてくれるかもしれない。それが同じ道を選択した者としての「人生の果たし方」なのだと手を繋ぐ二人を見て感じた。

 

 

子として、他人として、遺されるものとして

「自分が自分であることを実感するには、他者に欲せられることが必要である」と哲学者ラカンは言う。

沙都子が”なんでもこなせてしまう”のも、應介が父親という役割から何者かにならんとするのも、結さんが振り回されてもなお餃子を作ったり、一の世話をやいたり、孫を切望して祖母という役割を欲すのもこれが根源だ。

 

一の「41歳実家暮らしフリーター」という肩書が若干ややこしくしてしまっているが、子が母に持つ「生きていてほしい」「自分の母であってほしい」という感情そのものは至極真っ当なものだ。紘は母の尊厳死の決断を尊重する言動を続けるけれど、きっとそれは奔放な父と兄に苦労させられた母と、そして自分のそれまでの人生を肯定したい気持ちの表れでもある。

 

田熊家が「自分の人生の果たし方」の話ならば、築野家は「残されたものの整理のつけ方」の話だ。母は一人の人間であった。その役割が死をもって剝がされるとき、自分は子ではなくなるのか、母、であった人は自分にとって何者になるのか、自分は何者になるのか。

 

「俺も…俺のお母さんなんだよ」

この最後のセリフでやっと紘の子としての人格が見えて、私は少しうれしかった。一は紘や田熊家を通して世界を少しだけ広げ、紘は少し素直になったところで、結が立ち上がる。

 

「このふたりの母親だったこと、確かに幸せだった」

そう告げて一と紡の頭を撫で、糸に手を振り下手へ駆け抜けていく結さんを見て、母として生きた自分と、金沢さんと出会い尊厳死を選んだ自分…ある意味かつて置いてきた自分の影とちゃんと手を繋げたんだな、と唐突に思った。

糸の無垢なピンクのおべべと対称に、様々な生地のパッチワークからなる服に身を包んでいた結さん。数々の選択と、かつて別れた影を縫い合わせる作業。最後は無垢な白を纏って去っていく。

法被や筏を渡したら責任を果たした、と言わんばかりにしらーんぷり。

尊厳死を選択して余生をすごすことに対して、後ろめたさももちろんあったのだろう。残される息子たち、とりわけ一を放り出す形になることを、花筏の行く末に重ねため息交じりに語る。それでも彼女は針を動かし続けた。

 

 

…ふと思ったのだけれど、糸ちゃんは自身の産着を、結さんは自身の白装束を縫っていたんじゃないだろうか。飛び込んできた命に悩む両親と、母の死…二重の意味での死に整理をつけていく息子たちが一歩、いややっと半歩踏み出そうとしたところで2人の衣装が仕上がって、手をふりあって別れたのだとしたら。糸を結んでこの2人が進む先は正反対だけど、ともに愛おしい葛藤を共有した運針の時間はとても穏やかで美しい。針を進めていくことで、自分の命のハイライトを飾る。

自分の命を粛々と愛すること。

 

結局のところ、これが一番大事なのかもしれない。

 

*1:結局はストレスで生理が遅れに遅れただけだったのだけれど

とけない、とかさない、とけない。

厚さ13cm。

サンシャイン水族館のメイン水槽:サンシャインラグーンが湛える240tもの水量を支えるアクリルガラスの厚み。目の前にたゆたう、触れることができそうな水生生物たち。しかし彼方と此方ははっきりと、13cmの隔たりがある。彼らのためにも、私のためにも。

 

とけない

人の中には感情がある。感情、の2文字ではすまない、矛盾もふくめてがんじからめの想い。堰を切って流れ出したらとまらない。流れ出した水は濁流になり大事なひとをのみ込んで、どろどろの泥濘しかのこらない。そんなことになりたくないから人は想いを水槽のなかに閉じ込める。傷つけないように、傷つかないように。

 

隣の芝は青く見える。となりの水槽も煌めいて見える。

ただ芝と違って、となりの水槽に飛び込むことはできない。せいぜいできたとして水槽同士をくっつけるくらいだ。でもそうすると、隔たりの厚さは倍になる。とけないその厚みが、とけない誤解を生む。

アクリルガラスに映る自分の顔。捕食のすがたは悪魔の形相。でもひとは私を天使だという。となりの水槽はまぶしい。その光を捕食する私は、私は。

淵でじっと時の流れに耐える。でも時は流れるものではなく堆積するものだ、だから美しいのだと突如飛び込んできたタイ焼きは言い、「また明日ね」、と言い残し泳ぎ去っていった。なんども流れゆく「また明日ね」を聴きながら、やっぱり時は流れていくんじゃないか、ならばこの流れにのせて大海原へあの子をゆだねなければ。そしてこの淵で、私はひとり。

寄り添っているつもりだった。ともにたゆたい、いずれは同じ星屑になると思っていた。しかし足りないぬくもりを求めて彼女に触手をからめていただけだった。墨色の残像の感触。おいていかないで、大きくなって私も泳がなきゃ、大きくなるために、食べなくちゃ。

 

それぞれのとけない誤解。でも絡まってとけない視線。会うたびに説けないことがふえていく。

 

ユカが見た夢。

大水槽を前に「大人スゲー!」とはしゃぐユノとアイ、を遠くから見ているユカ。ユカには2人がどんどん先に進んでいるように、大人になっているように見えていた。実際のところ2人は「大人なりたくねー!」と叫んでいたのだけれど。

「いっしょに来たかった」

というセリフが「いっしょに生きたかった」にも聞こえて、星屑のような群れの中で脈打つことに憧れつつも、選択肢が多いが故に動けなくなってしまったユカの息苦しさがひたひたと伝わってくるラストシーンだった。

溶けあえなくても、鮮やかなマーブル描きながら生きていけばいいんだよ。と言えるようになるためには、きっと彼女たちにはもう少し時間が必要。夢ではなく、いつか大水槽を3人そろって眺められる日が来ますように。

 

そのほか諸感

光への衝動を抱くアイをとても魅力的に、くっきりと演じていた佐藤日向さんがとてもよかった。「人付き合いは苦手だけど、人間は好き」というアイのキャラクターをモノローグ・クリオネ・ユカユノとの距離の詰め方で丁寧にメリハリよく演じていて、佐藤さんのこともアイちゃんのこともとても好きになりました。一方、アイが出てくるまでのユカ・ユノの関係性が若干のみ込みづらく*1、序盤はセリフを取りこぼさないように耳に集中しなければいけなかった。アイのキャラクター像が圧倒的光属性(陰キャコミュ症だし、行動は裏目に出るし、大学で挫折して中退するし、自分の過去の行いはやはり悪魔だったと絶望するけど、生きていくことに関してはタフで根アカなので)なのに対し、ユカユノは無限・有限の絶望担当としてどこか自分を殺さないといけない&互いこじらせた愛情を持っているので、材料を序盤に全て出すわけにはいかない部分もあったのかな。現場だとその空気感も掴めたのかもしれない。

 

私は劇場でお芝居を観るという経験しかしたことがなかったため、本公演のように劇場以外の場所で行われるお芝居は面白いなと感じた。芝居のことなど気にせず存ぜぬで漂うクラゲの存在や、劇場とは異なる響きをするセリフや演奏は実際に体感してみたかった。もともと演劇は街の広場で行われていたものだし、今後もこのような劇場ではないところで、日常と地続きの場でのお芝居が増えてほしいし、触れてみたい。*2

 

今回は特典付きの配信チケットを買ったので、メイキングもたっぷり見れて嬉しかったし、このあとパンフとブロマイドが届くのも楽しみです!首を長くしてまってるよ~~

*1:めっちゃ仲良し!にも見えないし、腐れ縁というには材料が足りない

*2:もちろん劇場も大好きなのでいっぱい行きたいし配信劇ももっと見たい

深淵を渡る ―加藤シゲアキの連続する螺旋

加藤シゲアキは、ソロ4作でどう生きたか。

曲とライブでの演出で、彼の人生を紐解いてみたい。

 

あやめ ―無垢な救世主の誕生

決して空想 夢想の彼方

曲中に4回登場するこのフレーズは、出てくる度にその意味合いが変わってゆく。

 

決して(=きっと)空想 夢想の彼方(なのだろう、あなたとの愛の人生は。

でも)今だけは そばにいて 離さないで

主人公である”僕”は”あなた”を愛している、でもその愛が世界に認められるものではないと半ば諦め、せめて今、あなたがそばに居る今だけはと刹那的な感情で詞を綴っている。

街では灯りが揺れている、僕とあなた以外の人々の生活が、コミュニティが、淡々と続いている。目覚めの鐘の音…何かが変わろうとしているのに、まだ誰もそれに気づいていない様子だ。でも僕には聞こえる。あなたの歌う声はこの街では雨音に流されてしまう、でも鐘の音とともに”僕”の中に無垢に染み入り巡っていく。

 

決して空想 夢想の彼方

今だけはキスしてよ 世界は光の地図を求める

だから僕は生きていく

はじめの「決して空想 夢想の彼方」とニュアンスはほぼ同じだ。刹那的で、”僕”と”あなた”のぬくもりにフォーカスされている。しかし”僕”の目線は”あなた”から少し外れる。街の雑踏から離れ鐘の音に導かれるように、光の地図…”僕”と”あなた”の理想郷を探すことに己の生の意義を見出し始める。

ここでつづられる”世界”とは、「僕とあなた」。このぬくもりを確かめられる、街の隅の小さなこの世界。それを守るため、光の地図は無いかと”あなた”に抱かれながら思う。

 

紙で切れた指先の痛みのように、誰しもが経験していても、他人には完全に伝わり切らない不自由な疼き。”僕とあなた”/その他の人は100%理解し合えないことを胸に刻む。でも人の機微は簡単に線引きもできない。いま自分が持つこの感情だって、見ている景色だって、自分ですらはっきりと定義することは不可能だ。”わからない”、がちらばる世界。生きていくには荒野のように厳しすぎる。それでも”僕”は”あなた”と歩いていきたい。

ここが荒野であるならば、せめて”僕”と”あなた”の歩く道は自分たちの手で彩っていこう。与えられるラベルはいらない。与えられる定義もいらない。今この瞬間の色を塗りこめ、踏みしめ飛ぶ。”あなた”の手のぬくもりが僕の色だから。

 

決して空想 夢想の彼方(などではない。

これから進み続けるから)今だけはキスしてよ 

世界は光の地図を求める そして僕は生きていく

”僕”は夢想だろうと思っていた”あなたとの愛”の道を創る覚悟を決める。「そばにいて、離さないで」と受動的だった”僕”が、”あなた”の一歩前を進みだし虹を駆けあがる。この「世界」は「僕(+あなた)」、幼気に歌う”あなた”の手を”僕が”引く。

僕が”あなたを必要としているから。

僕が”あなたを愛しているから。

だから”あなた”も踏み出してほしい、きっとこの先は美しくなるはずだから。

虹の頂点で”あなた”に、世界にそう訴えかける。

 

消して嘘 感傷よ 放て

どこまでも

啓示だろうか。

なぜかこの言葉を前から知っていたような気がする。

 

決して(どんなことがあっても)空想 夢想のあなた(などにはしない

今だけはキスしてよ

世界は心の奥底にある だから僕は生きていく

先を歩む者としての覚悟。荒野には無かった光の地図、ならば己が地図となろう。

気付けば虹を駆けあがった”僕”の周りには様々な者がいた。淡々と生活を重ねていたように見えた街の人々も、複雑なグラデーションの中でもがいている。

 

虹を歩いてく

七色の光を手に、”僕”は世界の蜘蛛の糸となる。

生まれたばかりの無垢で美しい蜘蛛の糸を求め伸びる数多の手。その全てを救わん、と

”僕”は呼吸を始める。

 

 

氷温 ―理想の失敗、自己と他の分離

あやめの”僕”は、”僕”と”あなた”を同一視している。

”僕”が愛しているから、”あなた”も僕を愛しているから、”愛し合っている”から、「僕=あなた」なのだと。”僕”と同じ思いで虹を歩んでいるはずだと。

しかし人は人である以上、完全に同じ存在にはなりえない。

氷温は、それに気づくのが少し遅れてしまった”僕”の物語。

 

鏡ごしの君 知らない顔をしてる

多数の照明で縁取られた”君”…女優ライト、のような化粧鏡に映る”君”は”僕”の知らない表情。もう見つめ合うこともない、視線は合わない。鏡ごしでしか君を見ることができない。

昨日見た夢を 話しかけてやめにした

どんなに魅力的な夢を見ても、その面白さは当人にしかわからない。言語化した瞬間に味気なくなる「昨日見た夢」。紙で切れた指先の痛みは伝わらないものだと思い出し、”僕”と”君”が他人であることを痛感し口をつぐむ。”僕”と”君”の間に線が引かれていることを自覚する。

終わりを知りつつも諦め切れていなかった”僕”。夢の話をして君の気をひこうとしていた。ライムの香りでそれに気づき落ち込む。溶けてゆく氷がとめられないように、もう結末へのカウントダウンは始まっている。

 

Don't Believe in me

君を愛して 嘘重ねて 終わりなら

”君”を愛することは、嘘をつくこと。”君”を引き留めたくて偽り続けた。でも本当の”僕”を見てほしい、本当の”僕”を愛してほしい。”僕”の嘘など信じないでほしい。でもそれでは”君”の手はつなぎとめられないジレンマ。「消して嘘」と立ち上がったはずなのに、”君”と歩くには嘘を重ねていくしかなかった。”僕”の理想はどこにいってしまったのか。

Don't believe in me

あのとき”僕”を希望だと信じて縋ってきた者たちは、今の情けない”僕”の姿をどう見るのだろう。

 

君の熱の鈍さが へばりついて落ちないままで

もしも二度と会えないのなら 月明りで抱きしめて

君の熱の鈍さ…肌を重ねてはっきりと分かる気持ちの差がぬるく刺さって抜けない。嘘ではない、僕の最後の願いも君には届かない。

 

ドアの音 せめて聴かせて

僕のもとまで届かせてくれよ

きっと、目が覚めたらもう”君”はいなかったのだろう。”君”が去っていくその背中すら”僕”は見ることを許されなかった。もしかしたら、”僕”が昨日見た夢の話をしようとした”君”も、”僕”の記憶の中の”君”だったのかもしれない。

 

”君”に手渡されたハイヒール。きっとあれは”君”が告げた最後の言葉。”僕”はその言葉の本意が未だわからないでいる。

手にしたハイヒールを見つめ、考える。

わからない。

”君”をわかろうとしてハイヒールを履いてみる。

わからない。

最後の手がかりが欲しくて、”僕”は”君”が見ていた鏡を覗き込む。

氷温

そこに映るのは、”僕”の姿だけ。

 

 

世界 ―自己との対話、そして、再生

この手に情けない生き様を握りしめ

誰にも託せぬ夢ばかり

手に入れたかった色彩はどこへ

いつしかぐらつくレゾンデートル

あやめ、氷温のダイジェストかのような歌詞。

手に入れたかった色彩…求めていた光の地図も、かつて希望であろうとした自分自身の存在意義も見失ってしまっている。

振り返るには浅い人生を 

愛おしいながらも嘆く毎日

しかしその過去が全てマイナスだともとらえていない。氷温での別れも、その後にあったであろうあれこれもフラットに受け止めている。冷静に自分を肯定する。過剰な悲観もしていない。

 

ざらし空の向こうに一話のルリビタキ

一体あれはなんだったのか

半径数メートルの距離も保てないまま 強くあれと誓い立てる夜

空の向こうのルリビタキと、ごく近くの人間関係すらままならない自分。理想と現実の距離の遠さを認めながらも己を鼓舞する。理想郷を探そうとして、最愛の人と道を違え、身近な人との距離感にも手間取る現実。

どこかで生きてる誰かに悩んで

どこかで生きてる誰かに頼って

どこかで生きてる俺も誰かで どうすりゃいいの

世界の蜘蛛の糸になるどころか他者に悩んで頼って、自分も特別な存在なんかではなくて、他者を救うなんてこともできないのではないか。

 

ただ、理想が消えたかといえばそうではない。己の熱さは健在だし、誰にも託せぬ夢として心の底でじわじわと燃え続けている。

求めていたのは愛じゃなかったか

求めていたのは夢じゃなかったか

求めていたのは魂じゃなかったか

かつて自分が歩きだしたきっかけは何だったか。光の地図はどこにあったか。

世界はここにある

貴様が世界だ

 

 

Narrative ―シン化と真理

途切れそうな心電図、意識がもうろうとする男。

”世界”の底へと潜り、綴り続けた者。原稿用紙のコートに袖を通し、自ら物語をまとう。

白雪の上 羽ばたく残像

ヤドリギの夢 どこまでも遠く

ヤドリギとは、樹木の枝に丸く球のように寄生する常緑の半寄生植物。寄生した木が落葉しても、ヤドリギは青々と茂る。

しかしヤドリギは、その実を鳥に運んでもらわなければ遠くへは行けない。冬も飛べるルリビタキと、枝に絡まり動けない自分。未だ遠くにある理想と、わずかな時間しか残されていない自分。世界は心の底にあるはずなのに手が届かない焦りから、彼は神へと語りかけながら世界の要素を拾い集めていく。

Narrative—

がくり、と落ちる頭に反し滑らかに動く左手。

委ねた瞬間に生まれたSTORY 不意に閃き突然変異に恋し

ペンを握る手を動かすのは己の意地か、それとも神か。

「あなたの風になりたい」

彼を救おうとする神の声がささやく。デウス・エクス・マキナ…神の

手で万事解決されるようじゃ面白くない、でも自分の感覚ももうどこにあるのか…まあいい、気のすむまで叫んでやろうじゃないか。

 

”あなた”と過ごした日々、”君”との別れ、己を見つめ直した日々、すべてが意味を持ち手元を照らす。傷ついても左手は動き続ける。

 

白雪の上、ルリビタキを目で追いながら、確実に”何か”を書き残そうとしている。残された時間と命を投げうって叫ぶ。

もてあます衝動 語り尽くせる者

その目で見たものを ひたすらに解き放て

未完成ながらも重ねた日々を綴る。狭間に居る者たちが彼にすがる。救われんとするのか、彼の衝動にひきよせられているのか。その者らをも取り込み、物語を吹き込み、ページのひとひらとして展開していく。その姿は人を超えたなにかになりつつある…人々に命を与える神のように。

”シン化”した彼は振り向いた先で、おそらく「真理」を見た。

そして穴におちていく。

神に近づき過ぎて堕とされたか?

否、きっと神は真理を知る者として、彼に世界を託したのだ。ラグナロク後の世に生き返り人々を導いた光、バルドルのように。

 

穴の底で、彼は目覚めの鐘の音を聴く。傍らの幼気なぬくもりと共に。

 

 

螺旋

STORYでNarrativeを見たとき、この穴の底はあやめにつながっていて、彼は円環のなかに居るのだと思っていた。でも自分の中で彼の後追いをしていくうちに、彼は円環の中にとらわれているのではなく螺旋を上り続けているのではないか、と考えるようになった。

確かにNarrativeで何かを見た男は穴へ落ち、あやめの世界に戻る。でもそれは100から0に落ちるのではなく、新たな真理に出会ったから落ちたのではないか?リスタートではなく、純粋なプラス1の世界、のスタート。

人の価値観は日々変化する。新たな価値観も生まれる。それに名前がつくまで、知るまでの時間はとても苦しい。それに気づいて自ら立ち上がる事ができるか。わかり合えなかったときに、わかろうとしたか。己の立ち位置を見つめ直すことができるか。自分を信じることができるか。

 

加藤シゲアキのソロ4作は、価値観のアップデートのさまを描いたものではないだろうか。

 

トライ&エラーを繰り返し、そのたびに立ち上がり走り転び、何かを掴んでまた試す。他者と生きていくにあたりこの作業は1度では終わらない。その螺旋は果てしなく先も見通せないけれど、自分も他人もより良く生きる上では絶対にあきらめられない道だ。

倒れても、また一段上へ。私と、あなたとで生きる世界。

その世界を諦めない背中を、私はこれからも追い続けていたい。

 

ファンタジーにさよならを。NEWS LIVE TOUR2020 "STORY"

結局、”圧倒的リアル”とは何だったのだろうか。

 

アルバムを聴いたときは、彼らの内臓を握らされた気がした

待ちに待ったライブでは、成仏できた気がした。

でも”圧倒的リアル”とは何だったのか、なんとなくふわふわさせたまま日々を過ごしていた。

 

 

 

通常版には千秋楽の名古屋公演が特典として付属している。これを見てやっと、私は彼らの言う”圧倒的リアル”をやっと理解できたような気がする。

 

 

ライブのクライマックス、2度目の「STORY」を3人は向いあって歌う。4部作の衣装に身を包んだJrを従え、NEWS・Jr・ファン・関わってきた人たちすべての物語を背負い、その重さをものともせずせり上がる。盆の上は3人の世界、覚悟と喜びと確信を湛え歌いあげる。*1あまりの気迫にこの世のものとは思えなかった。あれを見てしまったらもう、もう私たちも引き返せない。

「この4部作を終えたら、もうひとつ上のステージに行ける気がした」

まっすーのこの言葉にある「ひとつ上のステージ」に行けた瞬間が、まさにこの千秋楽クライマックスのSTORYだったと思う。

 

NEVERLAND、EPCOTIA、WORLDISTAで丁寧にファンタジーを紡いだあとの”圧倒的リアル”=STORYはファンタジーと隔絶されたものではなく、前3作の地続きにあるもので、NEWSが”真の偶像”となるための儀式だった。それが、STORYに課された”圧倒的リアル(化))”だった。

6人が4人になって悲劇性が売りだった時期、悲劇を拭いファンタジーを武器にした時期、そして今、それらをすべて背負ったまま、真に偶像として、偶像のリアルさを武器に歩き出している。

 

また振り返ってみれば、NEWSのファンタジー性を担っていたのは手越君だったように思う。常人離れしたルックス、きゃしゃな骨格、まっすぐに伸びる声、キャッチーな強がり。彼がいたからファンタジーの説得力が増したし、彼の存在そのものがNEVERLANDでたいまつを持った理由でもある。

でもWORLDISTAあたりで少しずつ同じ方向が向けなくなっているのも感じていた。もしコロナがなくて違う世界線があったとしても、STORYが彼にとって区切りになってただろうことは変わらないのだろうな、とも思う。リアルを生きていくのは苦しい。君も私も。でもどうか健やかで幸多き道であることを、心から祈っている。

 

 

 

咲き誇るシロツメクサを踏まないように足先でよけながら歩く。

先を行く3人は時折こちらを振り向きながら進み続ける。

この先が荒野だなんて言ったやつは誰だ。

足裏に伝わる緑の柔らかさ。

踏まれたくらいじゃもう、彼らも私たちも折れないよ。

 

*1:覚悟:シゲ、喜び:慶ちゃん、確信:まっすー

傲慢に血を吐く 舞台「カモメ」

笑みとともに円陣、掛け声。

「お願いします」と舞台に一礼し歩を進める俳優たち。

”神保”が扉を閉める。

『劇場』が切り取られる。

 

www.area51map.net *1

 

 

問い

神保「演劇を続けるべきでしょうか」

”神保”が問う。

神保「劇場は自由な場所ですね。何をしたっていい。じゃあ何をするか。なぜ、するか。」

神保「理由なんてなくていいと思うんですよね、本当は、なにするにしても。でもまあ色々。もろもろで必要になってくるじゃないですか。」

”神保”はなぜこの戯曲を書いたのか。なぜ続けるべきかと問うたのか。

 

「かもめ」はいつも、大事なことは舞台裏で起きる。

”神保”は舞台裏で、なにを抱えていたのだろうか。

 

”神保”が”喜劇”としたかったものとは

顔合わせの席以来、”神保”はカンパニーの面々とは離れている。

神保「飲み会どころじゃないんだよ、書き終わってないから―――」

おそらくここまでが、彼がありのままに、正直に描写したシーンだ。

 

俯瞰して見ればみんなの顔が良く見える、面白くなる、喜劇が書ける。そう言って”神保”は神保を稽古場の外に出す。

少女「書き換えるの?」

神保「いや、ほんの少しだけだよ。~そこは稽古場、演出家のいない、稽古場。」

ほんの少し、神保は台本を書き換える。

 

以降、宗ちゃんは稽古を一手に引き受けることになるが、個性派ぞろいのカンパニーは一筋縄ではいかない。ひねり出した演出も良かったのか悪かったのか判断がつかない。アンヨに飲み会後の外泊がばれた、心が離れていくのが手に取るようにわかる。フラッシュバックする母の面影。わからなくなる自分の本音、見えない他人の本音。どれが仮面か本音か。俺の見ている君はどの仮面?台本問題で瓦解していくカンパニー、劇団員だからと覆いかぶさる責任。ボタンの掛け違いが重なって腕が上がらなくなるシャツのように、宗ちゃんは「自由に跳びたい」気持ちに相反し混沌に吞み込まれていく。失踪するアンヨ、追いかけられない自分、それを責める言葉。静寂の中、チキチキと響く刃の音。

 

少女は、何度この刃の音を聞いたのだろうか。

”家”までは物語とある程度距離をとって手を叩いていた。

”喪”では「私にどうしてほしいんですか」とユノに問うも「何もしなくていいよ」とけんもほろろに突き放され葬儀で膝を抱く。

”女ME"ではノゾミに干渉するも、自分を救うために、自分の忍耐の理由のためにしかノゾミはシーンを渡らなかった。焼け落ちるカドタをよそにノゾミはミシマの胸に飛び込む。

あんまりだ、なんなんだ、125年も何を見せてくれるんだ、わたしは喜びの子ではないのか。

「飛んでる場合か。」

滑空しながら考えた、カモメである”少女にとっての喜劇”へのToDoを。そして自ら羽根をむしり、その両の脚で舞台「カモメ」に降り立つ。新しい役とともに。

 

しかし少女の尽力むなしく、仮面をつけた者たちはすれ違い、崩壊の速度は加速する。

すれ違いながら生きていく、百年経とうが変わらない人間の愚かさ、それが喜劇だとチェーホフは言い放つ。

でも苦しみが変わらないなんておかしい、作者にしかできないことがあるでしょ!

そう叫ぶ少女に告げられる真実。

 

神保「でも、結末は変えられないんだよ。」「これは俺の記憶からできた物語だから。」

 

宗ちゃんは舞台裏という現実にもういない。彼がこの世を去る、それはもう変えようのない結末。その”悲劇”を”喜劇”にするために、”神保”はこの戯曲を書いていた。

 

ずっと気持ち悪かった。

宗ちゃん「俺はもうずっとこの舞台にかけてた。ずっと準備してたから、あいつと一緒に。俳優が翼なら作品はエンジンだから。どっちも伴って初めて、遠くまで飛べる

宗ちゃんがここまで言う”あいつ”がなぜここに居ないのか。なぜ全ての責任が宗ちゃんに負いかぶさっていったのか。

稽古場で実際に何があったのかはわからない、むしろ何もなかった、何もしなかったからのかもしれないが、宗ちゃんの死という結末は”神保”に理由があった。エンジンを失った翼は飛び立つ前に折れた。少なくとも”神保”はそう考えた。だからほんの少し書き換えて、この戯曲で”神保”を稽古場から出し俯瞰で宗ちゃんを見ようとした。宗ちゃんに何があったのか、宗ちゃんは何を考えていたのか。宗ちゃんの着けていた仮面は何か。俺が見ていた君は。

それが解ればこの”悲劇”を”喜劇”にできるかもしれない。彼へのレクイエムとして。

 

少女「この後、何が起こるの?」

震える声で少女が問う。

死を止めるという目的を叶えるために、自らの意思で覚醒した少女はこの作品に降り立ったが、彼女は数多の「かもめ」の中から降り立つ作品を誤った。この舞台「カモメ」において、死は避けられない結末。

 

この後、本番初日にアンヨは帰ってくる。嵐の中舞い戻ったニーナのように。

少女「え?帰ってくるの?なんで?」

神保「それが分からないんだよ。‥‥本人のことばが必要だ。想像だけじゃなく。」

少女「これ、私の役―――」

 

神保「そこだけ書き換えてみた。‥‥どうですか。」

この一言は、愛だと思った。

 

絶望の渦中の者から、絶望を飛び続けてきた者への引導。125年飛び続けたチェーホフの子であるカモメ=少女が自身の戯曲に飛び込んできて、初めて”劇作家:神保”が少女へ敬意を表し渡すことができたセリフ。死が避けられないならばせめてクライマックスの真相をと、少女へアンヨのインタビューを託す。

 

アンヨ「多分彼らは、人前に立つ人にも日常があるということを想像できなかったんだと思います――昔の私みたいに。でも今の私は、彼らには仮面の一番外側の部分しか見えてないんだってことが分かるんです。傷つくには傷つきますけど、仮面の下の自分は傷つけられないんです。」 

アンヨ「自分の深さを知ったんです。だから私は舞台に立つことが、少しだけ、怖くなくなったんです。」

アンヨ「郵便受けに紛れてた――待ってくれてた誰かの、かもめです。」

『一緒に飛ぼう』

神保「そこは浅草九劇、2021年、12月。」

変わらない結末へ、進む。

 

”喜劇”とは、”悲劇ではないこと”。

絶望に絡めとられた宗ちゃんの死は、俯瞰で見ると美しい。自分の仮面・表層の自分を本音と誤認しギャップに苦しんだ彼は、アンヨのように深さ…自分自身のセーフハウスを持つことができなかった。深さも知らず、母に還ることもできず、トレープレフ・カドタに縋るように同化してゆくその様は美しき斑模様。宗ちゃんを死に至らしめたすれ違いや仮面でさえも、客席から見れば美しさを構成する要素となる。

しかしその美しさは他者や観客の、俯瞰からの想像がフィルターをかけた美しさだ。宗ちゃんの仮面の裏はもう分からない、想像するしかない。それでも背筋の凍るあの椅子の倒れる音を美しいと思えたなら、それは”喜劇”だ。

なんと傲慢であろうか。

この戯曲はレクイエムでもあり、”神保”にとって「もろもろで必要になってくる」もの。

神保「チェーホフは、『かもめ』という悲劇的な物語をあえて喜劇と呼ばせた。観客が、客席から俯瞰して見れば、それは喜劇になる。」

少女「どんなに絶望的な舞台でも?」「舞台上の人がどれだけ苦しんでも?」「そんなのおかしいよ」

神保「でもそうして、人は生きていけるんだよ。」

客席から俯瞰して見て、美しさを見出して、自分の中で”喜劇”と定義する。そうして人は折り合いをつけながら生きていく。

なんて傲慢な。

でもそうして、人は生きていくのだ。

 

少女は空を飛びながらも、その視点は俯瞰ではなかった。だからずっとこれを”喜劇”だと思うことができなかった。皮肉にも羽根をもいで地上に降り立ってはじめて、少女は”俯瞰”を理解する。

少女「チェーホフ、生んでくれてありがとう。私、これから生きるよ。」

もう飛べないカモメ。自らの手で幕を降ろす。

鳴りやまない時計。

客席の私はまだ目覚めることができない。

私はまだ物語のなかに居る。私の幕は、まだ降りない。

 

俯瞰=客席から”私”が見たもの

多層構造

①:「かもめ」とチェーホフ

②:実際の神保の記憶

③:②を俯瞰し”神保”が書き上げた戯曲

④:③の中で演じられる予定の劇中劇

⑤:③の登場人物たち

⑥:過去作”家/喪/女ME”

⑦:⑥を経由し③に降り立った少女と③を書いている神保

⑧:③+④+⑦を見ている観客

という多層構造で形成されている。この多くの要素と次元を巧みに組み合わせ、静かに第四の壁を破り、さらには精神世界をもさらけ出していくことで、「かもめ」および「KAMOME」ミリしら勢にはどこからどこまでが(舞台上における)現実なのかという心地よい倒錯を、「かもめ」および「KAMOME」を旅してきた者にはパイ生地のように脆くメタな多次元構造を踏み抜く危うさと快感を覚える。注意深く舞台を観察すれば、滲みはあるが層ごとにしっかり境界線は引かれている。

 

ペルソナ

仮面を見誤る宗ちゃん、憧れと実力のジレンマ*2に陥り心無い言葉にも晒されるアンヨ、べったりと笑顔を張り付けボールを拾い平等を図ろうとするいくみん、強気に稽古場で意見をだしつつ甘え方もうまいワンコ、刹那的に損得をジャッジし、少々人たらしが過ぎるゆうくん、年の功と包容力でカンパニーにも観客にも安心を与えてくれるおじい*3、わざわざ隠していたチョコレート*4を取りに来て良い雰囲気に水を差し、果てはハイパー無双タイムで大暴れするガンちゃん(スイカは割らない)、自分が習ったこと・自分のやりかたに固執*5しつつ頼る相手を常に見定めている夫人、「私が一番冷静でした」と言いながらも抽象的にふわふわと切り抜けるおっちゃん、この舞台にかけてるという割に主体性がなく、ワンコの建設的な意見を「マイナス発言多すぎ」*6*7と言い放つシュウペイ、一癖も二癖もあるキャストたちが己と互いの仮面の下を探り合う。ペルソナがテーマでもあるが、注で言及しているアンコンシャスバイアスの観点から各人を見るのも非常に興味深い。ペルソナもアンコンシャスバイアスも、情報と感情があふれてもつれる社会を生きていくための防衛本能だ。ただそれを自覚していないと、このカンパニーのように心理的安全性*8を保てず組織は崩壊してしまう。自分の人生でも思い当たるシーンが多々出てきて、感想でも共感している人が多い印象だった。

 

”多様性”は発展途上

途中、停滞する状況に痺れをきらしたガンちゃんは、演出担当を買って出て”支配する側”へまわる。ここで繰り出されるガンちゃん無双では”多様性”を掲げ女子更衣室を共用に変更し、さらなる混乱がカンパニーを襲う。

”多様性”を認識しつつも”インクルージョン*9に至らず、それどころか違いを無視し”同化”*10を迫る…という現代日本をカンパニーにピンチインさせる神保節がさく裂していて、書いてて楽しかったろうなあと思ったし、この”同化”のその先をどう見るのかな、いつか描いてほしいなとも期待している。

 

少し気になったところ

アンヨ「空に打ち上げられてしまって、私もう、戻ってこられないんじゃないか、そんな気がしました。『私は、かもめ――』

というセリフと、ラストのアンヨのインタビューの前提となりうる、稽古場で居場所を見失い、逃げ出したアンヨが夢の中で「私はかもめ、私はかもめ」と呼びかけるシーンの元ネタについて。

「私はかもめ」=ロシア語で「ヤー・チャイカ」は旧ソの女性宇宙飛行士テレシコワが地上の管制室へ呼びかけた際の言葉であり、すなわちアンヨがスマホを通信機器に見立て、「私はかもめ、現在地がわからない」と管制室…パイプ椅子に並んで腰かけ、スマホを弄る面々=SNSでの反応…へ呼びかけるも、救いの手どころか罵倒が返ってきた、なんという悪夢だろうか、、、という演出意図はともかく元ネタはどのくらい伝わっただろうか。KAMOME第一作目の『家』にて、「私はかもめ」はテレシコワの救難信号である*11、という説明はされていたが。

それでも鮮烈な光と闇と音と演出で観客の視覚聴覚と口をこじ開け、己の脳髄を喉に直接流し込む神保スタイル&キャストの丁寧な芝居の合わせ技で観客に直感的にシーンの意図を理解させる事は成功しているし、有無を言わさずイメージをねじ込んでくるところがエリア51作品を狂おしく好きな所以でもある、のだが、『喪』の受胎告知といい今回の「私は、かもめ」といい、元ネタが分かるとイナズマのような知的オルガズムを得られる仕込みであることも知っているので、サイレントに教養を要求するのもオシャレだけど、もっとそれを多くの人に伝わるような落としどころがあったらいい、もっとみんな気持ちよくなれたらもっと素敵だなと思う。わかる人に分かればいい、というなら私は神保の頭蓋骨に張り付いた髄膜のかけらをも貪るまで。

 

また中盤のキャスト同士のすれ違いや心中吐露のシーンはキャッチーで分かりやすいがやや尺が長く、長く揉めていた割にアンヨの帰還やインタビューの一言でそれをまとめていたり、ラストの少女と神保がまぜくぜになったセリフは短く抽象的で、飲み込んでも腹に落ちてくるまでに少々時間がかかってしまい、そのうちに少女が美しく幕を降ろしてしまう。個人的に”少女”とペルソナの問題にはだいぶ距離があるように見えた。だからラストの少女のセリフもふんわりと感じてしまうのかもしれない。”少女”が覚醒して自らが渦中にとびこんで、それでも救えなかったというキャラクターなので仕方がないのかな。第一項で紐解いた”俯瞰と喜劇”および”少女カモメ”の回収っぷりが、方々の境界線をじわりとにじませ融合させていたのに対し、ペルソナについてはドン!ドドン!と時速165kmストレートで投げ込まれた印象がある。パンフレットの書きぶりからおそらくこちらがメインのテーマだったと思うのでわかりやすく直球に置いたのだと受け取っている。

 

このペルソナについては、キャストインタビューなどで「『こういう人いるよな』『こういうすれ違いってあるよな』という共感を舞台から感じてほしい」と言及されており、確かに心当たりのあるシーンや言動が舞台上で繰り広げられる。あんな事あったな、こういうこと言われたよな、むしろこれ私が言ってたわ…そんな共感、そして自分だったらかもめカードに何を書くだろうか。そんな視点で私たちは物語を眺め持ち帰る。

そこから先。私はそこから先の話がしたい。

本作におけるペルソナについて、組織運営という視点から少し掘り下げさせてほしい。

 

 

 

”わたし”に刺さったもの

と、組織運営論をずらずら5000字ほど書いたが、無意味なので消した。

各キャラクターの思考と行動を分析し、必要とされるリーダーやメソッドを提示したところで宗ちゃんはもう戻ってこない。

 

この舞台「カモメ」を見て初めて味わった感覚が、”私の分裂”だ。

物語の筋と構造と、さらには宗ちゃんの死の回避の糸口を俯瞰で冷静に探す”私”。

一方で板を前に沈み、淀んだ精神世界の底から仰望する”わたし”も同時に存在した。

舞台上で吐かれるセリフはどれもわたしのもので、どれもわたしの中に存在する感情で、それに対する言い訳めいたざわめきが縄となってわたしの首を絞める。高尚にやれ無意識バイアスを自覚しろだの、心理的安全性を確保するための仕組みづくりが必要だのと説きながら、私だってやろうとしたもの、一人じゃどうしようもなかったもの、だってあの時の私はひとりだったから、だって、だってと後ろを向く。脚本・演出・キャラクターが丁寧に配置していく予感を一つずつ拾い、物語の行く先をある程度予見してしまう。”神保”と”少女カモメ”に一縷の望みを抱くも、やはり変えらない結末への心中。鳴りやまない目覚まし時計の音の中、手のひらに知らずのうちに握り込んでいた罪のかけらで自分が共犯であることを自覚する。

 

そして何より私は彼らが羨ましかった。彼らは舞台「カモメ」という虚構を生きて、現実へと帰っていった。私はどうか。現実に不満があるわけではない、でも板の上で繰り広げられた魂の対話が眩しすぎて、ニーナさながら虚構の作り手への憧れに喘いでいる。己の思考回路をさらけ出し具現化する作業は死線が見えるというが、こうやって才ある誰かの活躍を後押しして、それに自分を投影しているだけのわたしには甘美な痛みに見える。なんと傲慢な。反吐が出る。

千秋楽を迎えて10日以上経ちカンパニーの面々が次へ歩を進めているというのに、私は未だに舞台「カモメ」に囚われている。配信チケットも買っていたのに、この眼で見たものが美しすぎて、上書きしたくなくて、配信も見ず終い。この10日間ずっと脳の余剰メモリをすべて舞台「カモメ」の反芻に割いている。光も闇も音も息遣いも足音も眼差しも、鮮明に覚えている。唯一劇場で見た景色と違うのは、その場にはもう私しかいないことだ。

 

目覚まし時計が鳴っている。ホワイトアウトしていく視界の中で、私はひとり雪に膝をつき舞台を眺めている。みんな行ってしまった。”少女”ももう舞台裏を生きている。私はまだ目覚めない、目覚めたくない、まだこの舞台を噛んでいたい。舞台をのみ込んでしまった今、対象を失った奥歯は頬の内側を噛む。血の味がする。足元にできた赤の斑点を眺める。

少女「私も、何者でもなくなります。名もなき『少女』でさえなくなります。あなた方の生きる舞台裏という名の本当の舞台をまた始めます。」

待って、行かないで。

少女「どんな筋書きにも、いつかは終わりが来る。どうかこれからも、何もかもが本当に終わる最後まで、その全ての幕が無事に降り続けますように。」

うるさい。勝手に祈るな。

 

虚構と現実の狭間で、血の混じった雪玉を板の上へ投げる。

空を切る気配にわたしは絶望する。

俯瞰で見るこの”わたし”は美しいだろうか。

 

 

‥‥”わたし”はこの筋書きでは死にたくない。でも。

 

Я чайка 、

わたしは、かもめ。

 

 

 

 

 

*1:フライヤー:公式サイトよりf:id:maromayubanana:20211218002534p:plain


*2:ステレオタイプ脅威…「私は新人だし」「みんなはプロだし」

*3:インポスター症候群の傾向あり…「僕は――才能がないから。自分が思いつくことなんて大したことないんだし。」

*4:台本ではチョコレートではなく財布を取りに来ていた。必然性の高い財布ではなく、単なるおやつのチョコレートを取りに来させる演出がすごく「ガンちゃん」で大好きだ

*5:アインシュテルング効果

*6:集団同調性バイアス傾向

*7:台本を書き換えるか揉めるくだりでは唯一まともな発言をするが、ワンコに一喝され黙ってしまう

*8:何を言っても大丈夫だ!という安心感。これがあると組織のパフォーマンスが向上、組織運営において最も重要とさている:2012年 Googole「プロジェクト・アリストテレス」より

*9:包摂:多様性を尊重し、認め合い、良いところを活かすこと

*10:多様性社会は排除→同化→差異化→包摂の段階を経て発展していく。同化は違いを無視し、単一のカテゴリに染めてしまうこと。

*11:„Я чайка“ =Ya · Chaika =„here, seagull“…実際は「こちらカモメ」=「もしもし管制室」くらいのニュアンスだったが、チェーホフのかもめのニーナのセリフと同じであるという理由で、若干ニュアンスがロマンチックに装飾されてロシアのお茶の間および日本含む外国へ伝播したといわれている

胎内 ―宣誓、これからを生きる者たちへ―

演劇人コンクール2021奨励賞受賞作品、エリア51:神保治暉 演出の「胎内」YouTubeにて観ました。


www.youtube.com

 

 

概要

演劇人コンクール2021の上演審査では、課題戯曲6つのうちよりひとつを選択し、60分以内にて上演。

課題戯曲のひとつ、三好十郎の原作は青空文庫に掲載されている3時間を超える戯曲。

www.aozora.gr.jp

この課題戯曲「胎内(三好十郎作)」については、一部抜粋あるいはテキストレジを行うことができ(セリフ変更、新たな翻訳は不可)*1、神保治暉演出の胎内もテキレジ・抜粋・再編成により60分内におさめられ、それゆえに三好の原作に忠実なセリフまわしでありつつも、演出により戦後と現代に通ずるものをガツンと提示する作品になっていました。

 

・以下、三好十郎作:胎内を「原作」、神保治暉演出版を「本作」と記載。

・引用するセリフは先の青空文庫に準拠。

・敬称略

 

あらすじ

終戦直後、闇ブローカーの花岡金吾とその愛人村子は、警察を撒くためとある山奥の洞窟に身を隠す。念入りに入口を閉じやり過ごそうとした矢先、地震により唯一の出口が塞がってしまう。暗闇、薄れていく空気、尽きる食料…絶望的な状況の中、先に横穴に潜んでいた復員兵 佐山富夫とともに、生と性で葛藤してゆく。

 

”そうするしかなかった”人たち

舞台は終戦から2年後。「胎内」は”そうするしかなかった”人たちの物語である。

個人の意志など戦時下では貫くことは難しい。生きていくためにそうするしかなかった。

 

花岡金吾(演:長野 こうへい)

もともとは小さな紡績会社の外交員。しかしその会社が戦争中に軍需会社になったのを皮切りに花岡の人生は闇ブローカーへと舵を切っていくこととなる。

軍部におべっかをつかい、賄賂をつかませ女をあてがい、それで得た金で闇取引。妻との間に4人の子供をもうけながら、村子のほかに3人の女を侍らせている立派なゴロツキである。(そしてそれがこの横穴に迷い込む所以でもある)

自分の会社が軍部に下れば、自分も軍部につくしか生きる道はない。まじめに働いていては妻と4人の子を食わせていくのも難しい。当時の彼にとっての最適解である。しかし。

花岡 ……たまらねえんだ、それが。……俺あ、実は弱虫だ。気がついた。……世間で、インチキなことのありったけをして、悪党づらをして通して来たが――そうしなきゃ、やって行けなかったから、したまでで――実は悪党でもなんでもありゃしない。

花岡は実に臆病な男である。本作ではさらにそれが強調されている。情けない声を上げながら横穴の入り口の戸を閉じるし、追手に見つかりやしないかと村子がライターに火をつけることにも過剰に反応するし、物陰から佐山が出てきた折りには完全に腰が引けている。先のセリフは中盤に登場し、満を持して感たっぷりに告白されるが観てるこちらとしては「うん、知ってた…」となってしまうほど彼の弱虫はありありと描写される。

外の世界では虚勢をはれても、この暗闇のなかでは無意味。外界と完全に遮断され虚勢の象徴をぼんやりと眺めながら神にすがり、命は尽きてゆく。

 

村子(演:土屋いくみ)

母妹など6人の家族を抱えてダンサーとして働いていたところを花岡の目にとまり、彼の愛人となり*2、花岡の金で新橋に洋裁の店を出させてもらっている。この時代、女ひとりで食って食わせていくにはこうするしかなかっただろう。村子には意中の男もいたがそれもかなわず、心と身体がばらばらになりながらも生きていかねばならなかった。横穴に閉じ込められてからも、自身の精神的支柱を花岡にすべきか、佐山にすべきかを本能で見極めていく。それは決して女の狡さなんかではなく、村子が生きていくための手段だ。

本作の村子の芯にあるのは「愛」。

村子 第一、織工時代から苦労させて、もう子供が四人もあるおかみさんが、気の毒じゃないの! 私、シンから、そう思う! そうじゃなくって? (ホントの同情でバラバラ涙を流している)

村子 ……その、あんたの奥さんにしても、ホントは、やっぱりあんたを一番なにしているんじゃないかしら、もしかすると?
佐山 軽蔑していますよ、ヘヘ!
村子 いいえ、実は、その反対じゃないかしらというのよ。つまり……あんたのことを一番、もしかすると*3

村子 もっと、からだ以上の、もっと深い、もっとシミジミと深い――私にはなんといったらよいか、いえないの――いえないんだけど、たしかにあるのよ! からだ以上の、もっと深い深い愛情――愛というものは、ある! 気がついたの私、それに。

村子 ……どうしているんだろう、いまごろ、おっ母さんや、妹や、そいから新橋の店の連中?

花岡を軽蔑しながら、彼の妻に本気で同情して号泣する。妻に捨てられた佐山だが、本当はちゃんと愛されてるのでは?と諦めない。極限状態で何も考えられないと言いつつも、夢に逃げ込む直前まで家族を案じ愛を胸に抱いて命を閉じていく。からだ以上の深い深い愛情、、母性本能よりもっと根本的な、人を愛することを信じたい本作の村子はとても愛おしい。

 

佐山富夫(演:原 雄次郎)

「富める夫」という名に相反し、徴兵され前線には立たなかったものの上官に殴られながら横穴をほり、同胞がひとりまたひとりと林の中で首をくくっていくのを眺めながらまた穴を掘り、終戦後やっとの思いで家に帰るが身体は使い物にならずろくに働けない。ついでに過酷な戦争で男性機能は不能になり、妻のチヅは他に男を作って富夫の枕元で乳繰り合う始末。しまいには家に居場所がなくなり、かつて自分が血を吐きながら堀った横穴にたどり着く。

横穴では生気もなく、時に狂いながらも花岡と村子との対話を通して自身の過ちに気付く。

そして彼こそが、原作と本作で最も異なる結末を迎える人物となるのだ。

 

佐山とチヅと、世界線

「胎内」の登場人物は花岡・村子・佐山の3人しか登場しない。そのため、本作の出演者が4人発表されたときは首をかしげた。はて、役名のない高田 歩は何を演じるのか。

その答えは上演開始数秒で、下手に座る妊婦、の腹を移すモニター、という形で提示される。その後も彼女は腹をさすり腰をさすり、のたりのたりと舞台を歩き回り、花岡・村子・佐山の会話に耳を傾ける。

 

彼女はいったい何者か。

地震とともに前駆陣痛に襲われる。

佐山が妻に捨てられた話題で顔を上げ、話題がすぎればうつむく。

村子が狂って「掘ってきた!」と狂喜すればなだめるように腹をさする。

本当は奥さんは佐山のことを愛しているのではと村子が詰めると腹を抱きしめる。

佐山 ヘ! ……なぜ笑うんだ? なにがおもしろいんだ? お前が作ったんだぞ? お前がこうして生みつけたんだぞ!

狂った佐山の罵りに顔を曇らせ、その顔がモニタに大映しになる。

佐山が花岡と争うと本格的な陣痛に襲われる。

 

佐山の妻、チヅは原作では佐山のセリフで名前が出てくるだけ。しかし本作では妊婦の姿で板の上に立つ。

不能になり働けない佐山をチヅは許容できず、他に男をつくった。

それしか原作ではチヅに関する説明はない。そのためここからは演出からの推測にはなるが、チヅは佐山ではない男の子を身ごもったのではないか。また、花岡・村子・佐山のいる横穴がチヅの”胎内”でもあるのではなかろうか。現にチヅがトン・トンと腹を叩くリズムが、横穴に響く音と一致している。

チヅは他の男の子を身ごもり、3人のもがきを腰に響く鈍痛として受け止め、捨てた佐山への後悔の念にジリジリと胸を焼かれながら臨月を迎える。

 

本作は花岡と佐山の決闘、そしてこの状況を夢だと逃げようとする村子の叫び、夢ではないと諭す佐山、価値を失った銭をぶちまける花岡をもって3人は「死」を覚悟する。それと同時にチヅは子を産み落とす。産み落とすが明らかに死産だ。生への希望が断たれた瞬間。胎盤を思わせる腹帯を投げ捨てる姿が悲しい。

 

うなだれる中、村子に縋られ、愛を語る村子の言葉を聞いてから、佐山の様子が変わり始める。己と戦争、向き合うべきだったのにできなかったこと、見なかったふりをしてずるずる戦争に引き込まれたこと。それでも、自分がやっていたのは戦争ではなく”人のため”になるのではないかと穴を掘り続けていたことに気付き、再びシャベルを突き立てる。原作の佐山とは異なりはっきりと生きる事をあきらめずに行動しはじめる。*4

佐山 ……死ぬことがわかっているから、生きて行けるんだ。生きるよ、これから先も。

生きることをあきらめてしまった花岡・村子が映るモニターに、佐山はシャベルを振り下ろす。その瞬間。

 

チヅ ……あんた……!

 

佐山はチヅのもとに”帰ってきた”。

生きる事を明確に選択し世界線を飛び越え、妻の元へ戻ることを許された佐山。彼が同じく絶望を味わったチヅの救いになればいいと、思う。

 

宣誓

「目を背けるな、自分で決めろ。俺はそうして生きていく」

本作で神保治暉はそう宣誓したように感じた。

この世の中は理不尽だ。他者がレッテルを勝手に貼り合って罵って、救済してほしくても救済の権利を得ること自体がとてもとても難しくて、自分の与り知らぬところで他人の都合で物事が決まっていく。そんなのってありかよ。でもそんな世の中で生きていかなきゃいけない。世の中にずるずると引き込まれている場合じゃない、もう俺は目を開いた。シャベルを持った。神にも夢にも縋らない、自分で決めて生きてやる。

ラストシーン、佐山と花岡・村子の間には明確に線が引かれる。気づけた者と考えることを止めてしまった者。

「俺は気づいた、君はどうする?」

本作は令和を生きるもの全てに対してそう問いかけている。

 

そのほか好きな演出やふんわりとした感想など

金メダルと聖火リレー

中盤、狂った村子と花岡は幻聴を耳にして「掘ってきてる!助かった、助かった!!」と狂喜乱舞する。金メダルを首にぶらさげ何処からかトーチを取り出した花岡は、軽妙なリズムに合わせ横穴を一周し、聖火台-村子へトーチを掲げる。両者ともとても良いドヤ顔、佐山は訝しげにそんな二人を眺める。

絶望的な状況と矛盾するはしゃぎ様のふたり、感染状況と矛盾するなか開催に至ったオリンピック。

劇中と現実の”状況と矛盾する滑稽さ”を皮肉をこめて演出されているこのシーンはとても面白かった。

ちなみにこの直前、最初は「俺には聞こえない!」と半べそかいてた花岡の頭を、「ほうら、ちゃんと聞かんかい」と言わんばかりにグワっと地面に押し付ける村子の手がすっごく好き。

 

花岡のズボン、村子のスーツケース・靴・コートは赤。

佐山(とチヅ)の服は白。

村子の横穴での精神的依存先が花岡から佐山に移っていくにつれ、村子は赤いものに触れなくなってゆき、最終的には白いシュミーズ姿となる。

 

音・光

横穴に響くような音、羊水を伝うくぐもるような音、水が岩を叩くような済んだ音…本作の音は多彩で、でも自然にそこに在ってとても良い。

なにやらバネを鳴らす?楽器?を用いて演奏しているらしく??いったいどんな楽器なのか、そもそも楽器なのか?「バネを鳴らす」というワードしかわかんないからハテナだらけで偏差値低い文章になっているけれど、とにかくそれで奏でられる音がとても表情豊かでした。

また地震後に点灯するリングライト。これが点くことことで明るくなるのに逆に閉塞感が出て、光の力ってすごいなあと思いました。そして最後の世界をガラっと変えた上手の照明めちゃ好きです。

 

モニター

登場人物は少ないけれど、舞台上では常に静かに濃密な展開が起きている本作。目が足りない!と焦るけれど、「いまはここを観ろ」とカメラで撮影した映像がモニターに映されるので非常に良き福利厚生。初見の方はこのモニターをガイドに観ていくのが一番わかりやすいのではないだろうか。また、この映像が胎内を”のぞき見”しているような、人の深淵、見てはいけないものを見てしまっているような感覚に誘ってくれる。

 

チームの力

コンクール前はどの出演団体も「最優秀賞とったるで!」とメラメラしていて、SNSで各人の奮闘ぶりを見守っていた。そんな中でエリア51はなんかずっと楽しそうだった。稽古も、移動中のバスも、現地に着いたときも。そして終わったあとはみんな口々に「楽しかった!」と言っていて、あぁなんか…すっごく楽しかったんだな、と思った。なんか小学生のような感想だけど、本当にすっごく楽しそうだった。いいなあ、いいなあ。リモートばかりですっかり”対話”することが減ってしまった私には、対話を重ねて人の心に作用していくモノを作っていく彼らの姿は、とてもまぶしくて羨ましい。

エリア51はビラ配り係とか飯炊き係とか募集していませんか?当方スペアリブと豚汁と唐揚げには自信があります。え、募集してない?ですよねー。はい。

 

一言入魂

驚きとうれしさと申し訳なさとがぐちゃぐちゃになった最後のチヅのひとこと、圧巻でした。

 

おわりに

演劇人コンクール公式ページの舞台写真みると、他の作品も見たくなっちゃうなあ。オリザさん以外の審査員方の講評も気になる。来年は有観客で開催できることを祈っています。

前から好きだったけど、このコロナ禍でたくさんストプレを観るようになり、思ってたよりも私は舞台が好きなんだなあと再認識しています。

そして前はこうやって感想を書き散らかしていれば昇華できてたものが、最近インプットとアウトプットのバランスが完全に崩れてしまっていて書くだけじゃあ何ともならなくなってきました。舞台から受け取ったものが血潮になり、行き場をうしなった血を鼻血としてだらだら噴き出しているような状況です。どうしたもんかなあ…音楽とかライブとかはこうならなくて、皆と共有するとスッと肉になってくれるのですが、お芝居を観ると血がたぎるんだよな……これの解決策については2022年の課題にしたいと思います。*5

 

最後になりましたが、あらためて!

神保治暉先生およびカンパニーの皆様、演劇人コンクール2021奨励賞本当におめでとうございます!良いものをみせていただけて私はとっても幸せです!!!

 

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※本記事のアイキャッチ画像はエリア51公式ページより引用させていただきました。
デザインめっちゃ痺れる…!

 

 

*1:ほか戯曲での制約、レギュレーションは演劇人コンクール公式ページを参照されたし

*2:彼女いわく「手籠め同様」だったようだが

*3:※愛しているんじゃないかしら

*4:原作では当該シーン時は命がほぼ尽きており、村子の中にチヅを見ながら息絶えてゆく

*5:工作に熱量をぶつけてみたんだけど、なんか違った…工作も楽しいけれど。