マカロニ。

おたく魂をぐつぐつ煮込んで

叩けよ さらば開かれ…… 「かつてのJ」

私は作品には人格があると思っている。演劇にしろ、音楽にしろ、映画にしろ、板の上に乗ったら、作品としてパッケージングされたら、それは作者のものでも俳優のものでも演奏家のものでも観客のものでもない、何者からも切り離された「作品」としての人格があると思っている。*1

でもこの「かつてのJ」は、作品という人格として扱うには非常に血が濃かった。それは私が彼がWであったことを知ってるからとか、偉大なるJの刹那的なアガペーや理念や理不尽さから否応なく継承される美しい物語を見てきているからとか、桶や水着で踊るクソ文化をクソと思いながらもそれを消費することでしか“応援”できる術がない事実がクソだなと思ってることとか、彼がJになってから投げつけられた言葉や彼のなしえたい世界を知ってるからとか、その世界の実現のために、少なくともわたしは彼の嫌う資本主義という槍を振るい続けなければいけないんだよなとか、いろんな要素が私にあるからであって、今回はエモーショナルになりすぎて非常に没入しづらかった。従来の彼の作品に比べてローコンテクストで、板の上には明確に「WとJ」が存在し、観客として「わたし」が存在し、互いに対岸を並走する人生を俯瞰で観た。かながわ短編アワードへの痛烈なカウンターをかましながら、かつて偶像であったJの人生の末路を未来への祈りの偶像としてあの地下に屠ることにより、浄化と自戒の物語は幕を閉じる。奈落の底からの叫びを聞かせるキリキリとした笑顔が網膜に焼き付いている。奈落の底からベニヤを叩いたらそれは開くのか。開いたとて差し伸べられる手はないかもしれない。ならば後に続くこどもたちに差し伸べる手になるために、強く這い上がるしかない。これが演れて良かったとおもう。これを観れてよかったと思う。

 

 

一方、私は「かつてのJ」という作品とは別に、今イベントにおける、彼のいうところの「責任」のとり方(結果論的なものではある)が、あんまり好きではなかった。

 

彼のnoteでも書かれている通り、今回は非常に販売・収益の最大化というところに力を入れているように見えた。見えたというかあからさまにそういう動きをしていた。ので、勇み足でチケットをとるなどそれに応えようと私(たち)も動いた。彼のDM送付などの賢明なアプローチでエリア51名義で70席ほどを売り上げたという。すばらしい。たくさんの人に作品を見てもらえた。「かつてのJ」は喜んでいると思うし、私も嬉しい。

 

今シーズンの投票結果が発表される日、神保氏から「かつてのJ」の得票数・順位の公開、スペシャル公演出演希望を控える旨のお知らせがあった。

私は彼の魅力を、己のマスターベーションを美しく見せてくれるところだと認識していて、今回も「かつてのJ」という昇華を美味しくいただいた。ただ、今回の彼の“検証”という名のマスターベーションは、ビジネスとして展開し人を巻き込んだそれとしてはあんまり美しくなかった。投票があるイベントで、買ってくれと働きかけ、会場の多数をエリアの扱いチケットで埋めて、観客の投票も済んで、のタイミングでのこの発表で、なんと表現したらいいか、コールアンドレスポンスがあると思って思いっきり声をだしたけど、なんか私だけ勝手にレスポンスしちゃったー!ここ盛り上がりどころとちゃうんかーい!みたいな、振り上げたテンションの行き場のなさにずっこけた。とまどった、とか裏切られた、というより、ずっこけた。あえなく私の票は死に票となった。こうなることがわかっていたら、私の票は生きた票にしたかったな、ほかの作品に面目が立たねえ。少なくとも私は、いま、「かつてのJ」を人質にパッションのスリにあった気分だ。

作品は作家演出家演者がどう扱ったっていい。というか作品の主権は彼らが持っているとされるのが一般的だ。作り上げた作品がイベントの趣旨にそぐわなくなったと感じたということ自体は責めないし、作品という生き物を産むうえでは避けられない道筋のひとつだろう。演劇を継続するうえで、収益を重視しなければいけないというのも一つの重要な柱で、それを実証実験する目当てと試みもよかったと思う。だからこそそれを支援しようとチケットを買う人がいる検証だったならば、投票イベントがある催しであること、それに票を投じるひとがいること、収益として成功した結果に付随して起こるであろうことをもう少し慎重に予測してほしかった。クリエイターとしての美学と、自営業者としての信用はまた別ものじゃないかい。いま私は実に資本主義的なことを書いているね。でもなんか、レギュレーションを信じてのぼったハシゴを外して去っていく君を、ぽかんと眺めている、そんなかんじ。

 

良い作品を観れた。それでリターンはじゅうぶん。なのにそれ以上を求めるという、おたくとして一番よくないムーブをしているのはわかっている。でもここからハシゴなしに飛び降りるにはちょっとまだ身体が重すぎる。なのでここに書き置かせてもらうよ。この言葉たちは、奈落にとって槍となってしまうのだろうか。わからない。

*1:登場人物・役もしかり。

六角形のレンズで君を見る ―エリア51「虫の瞳」―

帰りの満員電車で、よろけた拍子に後ろの人の足を踏んでしまった。

「ごめんなさい!すみませんでした」

「大丈夫ですよ、イテテ…」

からだとうらはらの言葉が返ってくる。更に謝ろうとしたけど彼女は電車を足早に降りてしまった。

 

電車から降りようとする白杖の方を介助しようと、「おう、」と男性が腰に手を回す。危害を加えられたと勘違いした白杖の方が男性の首を絞める。

「ちがう!ちがうって!」

蜘蛛の子が散るように、人が離れる。

 

うらはらの言葉、やり場のない謝意、優しさが伝わらない選択、自ら遠ざけてしまった好意。

 

虫の瞳に映すべきものとは。映したいものは…

ギャラリーで目の当たりにしたものと、目の前の光景が万華鏡のように脳裏に広がる。あの居心地の良さと、目の前の居心地の悪さの差はいったい何だ?

 

 

虫の瞳

"孤立"を考えるパフォーマンス・アート

グレゴール・ザムザはある朝、

目が覚めると虫になっていた。

これまで家計を支えてきた布地販売員の

仕事は断念せざるを得なくなり、

生活は一変する。

伝わらない言葉 周囲と異なる身体 続く命

その「孤立」は絶望にしか繋がらないのか。

――――「虫の瞳」特設サイトより引用

 

野志

f:id:maromayubanana:20220628192448j:image

カチカチとメトロノームが拍を打つ部屋で、カプセルで手遊びをしている。カラーボール、スリンキー、花札など数々のおもちゃがジョイントマットに散らばるさまは、さながら彼女の中のいちばん奥の、幼児的な好奇心を現したよう。

部屋に足を踏み入れるといっそうメトロノームが響く。まるで彼女の体内に潜り込んだかのように。私の気配を察した彼女はおもむろに脈をとり、メトロノームを整える。

f:id:maromayubanana:20220706170305j:image
新たな拍のなかで、彼女は鍵盤ハーモニカのチューブで囲ったなかからカプセルを取りあげた。カプセルの中には小さな脳。カプセルを拾い上げ、回したり投げ上げたり、カラカラと振り、耳をつけ何かを感じようとしている……席を移動した私の足跡を目で追いまた脈とメトロノームを合わせる………そしてまた興味深げに、そして遠慮なく脳カプセルをくるくる回す。

ひとしきり脳カプセルを堪能した彼女はこちらの床に目を向け、狙いを定め、勢いよく転がす。ちらばるおもちゃにひっかかるカプセルもあればマットを越え壁や私の足にぶつかるものもある。その様子を時に満足気に、時に物足りなさそうに眺める。お手玉をしていて手から弾け飛んでいってしまった脳カプセルは、諦めの目線がちらりと向けられ彼女の興味から外れる。

f:id:maromayubanana:20220628194057j:image

足もとに転がってきた脳カプセルを手にとってみる。それを振ると、なるほど、カラカラという音に反してゴロンゴロンとした不規則な手応え。カプセルの角度によって、刻まれた脳溝も様相を変える。メトロノームの拍のなかで、しばらく私も脳カプセルに見入ってしまった。

f:id:maromayubanana:20220628194849j:image

ひとつのカプセルの脳が割れている。割れてしまったのか、割ってしまったのか。

カプセルを無邪気に愛おしそうに手に取る表情、こちらの気配に少しの戸惑いを見せメトロノームを整える首すじ…そこに「人間は好き、人付き合いは苦手」そうな彼女の心音を聞いたような気がした。

他者の脳を見たい。知りたい、感じたい、理解したい。あのひとの脳に自由に触れられたら。感じることができたなら。彼女のうぶで幼気な欲望のリズムに、私の鼓動も同期を試みる。でもきっと彼女は、私に彼女の鼓動を計られるのを嫌うだろう。ふたたび、彼女の指は頸動脈へと伸びる……それでも私は知りたい、あなたの脳をカプセルに入れてこちらへよこしてよ。私のも差し出すから。あなたのメトロノームと私のメトロノーム、それぞれのモノリズムは美しいポリリズムと成りうるか。

 

高田歩

f:id:maromayubanana:20220706164457j:image
カーテンをくぐると薄暗い部屋。

青いライトに照らされ、壁にぴったりくっつく箱の中に彼女はいた。

隣の部屋のメトロノームの音がすこしくぐもって聞こえてくる。青い光と彼女が身に着ける水中眼鏡も相まって、まるで水の底にいるようだ。

箱に貼られているのは彼女の書いたことば。

f:id:maromayubanana:20220706170223j:image
f:id:maromayubanana:20220706164618j:image

「逆立ちをしたら、おならとはちがう空気がでた。あれはなんだったんだろう」

「背中のゴリゴリが痛い」

「おしりが冷たくて困ってる。おしりが冷えるとからだの10cm内側が冷えたような気がする」

メトロノームより少し遅い心拍数」

「首があったかい 手があったかいのか?触れた感じだとこんな感じ」

「目をつむると三角のなかに三角。また三角。次はキラキラ。」

「右のかかとががんばっている」

「息がしやすくなってきた。でも呼吸に意識を向けると苦しい」

「足の甲がかゆい。なにも当たっていないのになぜ。」

f:id:maromayubanana:20220706164707j:image
箱の中で、時に自分が書いた言葉を見上げながら自分の身体をひたすらに観察している。その観察対象の身体は、身体の奥深くのこともあるが、どちらかというと「外界と接している身体、その反応」にひたすら目線を向けているように感じた。

差し込む光、隣から聞こえてくる他者の心拍数、床や壁から返される力。自分ではないものに触れている身体。箱に閉じこもり自分を見つめることで、外界と自分のにじみを探る。

f:id:maromayubanana:20220706164831j:image

「地面 冷たい。」

パンプスを脱いで、床に直に触れてみる。

炎天下を歩いてむくんだ足に心地よい感触。彼女と同じ床に触れているのに、私と彼女の受け取る感触、求めるもの、返されるものとはきっと違う。別の個体としての私と彼女が接するこの外界も、触れてくる個体の数だけ見せる顔があるのだろう。

貼り付けたことばを見つめながら、彼女が一枚服を脱ぐ。より肌で外界との自己の摩擦を観察するために。

 

神保治暉

部屋を走りまわる電車たち。f:id:maromayubanana:20220706165313j:image

近くに歩み寄り耳を澄ます。

机の上でひとりめぐる電車は、カフカ「変身」で虫に成り果てた主人公の”グレゴール”のセリフを、部屋を右往左往に走り回るふたつの電車はグレゴールの“家族”とそのほかの登場人物のセリフを吹き出し続けている……グレゴールをなるべく見ないように生活にあくせくする家族。家族に“ないもの”とされ逡巡するグレゴール。

床いっぱい走り回る二つの電車の視界にはぐるぐるとあがく電車は見えておらず、彼らは時にガガガと車輪を鳴らしながらレールを滑り降りる。高低差のあるレールは複雑な胸中のみだれのよう。

壁を見上げれば、彼のPCの画面が大写しになっている。「変身」の一場面、にグレゴールか彼の心情か、「変身」にないものが書き足される。

f:id:maromayubanana:20220706165412j:image
この部屋は唯一外につながる扉が解放されていて、走り回る汽車の音に交じってほのかに街の喧騒が生ぬるく侵入してくる。しかし彼はそのすべてを“ないもの”としている、“ないもの”、というか、“きにしないもの”にしている。彼はそれらに対してプリンターからテキストを吐く。

f:id:maromayubanana:20220706165652j:image
外界との通信手段も充電という行為にかこつけて伏せられている。

f:id:maromayubanana:20220706170132j:image 

 

f:id:maromayubanana:20220706165523j:image

吐き捨てられたマスターベーションの成果物を持ち帰ることを許された私たち。“ないもの”にされた彼が“きにしないもの”とした私たちに“あるもの”を残す。腹に落ち切らない矛盾さの中で紙を拾った。
f:id:maromayubanana:20220708164504j:image

窓ガラスで夏の暴力性をろ過したやわらかい光の中で自慰にふける。私たちはそれを見ている。その成果物を握らされる。

鮮明に聞こえていたグレゴールの声、ここからでは数多の反響に混ざり聞き取ることができない。聞こえないから気づかないフリ、わからないから見ないフリ、アンタッチャブルだから見ないフリ。見ないフリをすれば、”ない”ことになるのか?

手にした紙が、「否」と唱える。

 

山本史織

f:id:maromayubanana:20220709231236j:image
この部屋は、においがした。

登校前に友だちの家まで迎えに行って玄関で待っているときのような、よその家のあさごはん、生活のにおい。

f:id:maromayubanana:20220709231428j:image

本来料理をするべき場所であるキッチンには様々な資料や画材道具。「ただしい手の洗い方」の掲示には容赦なく写真がかぶせ貼られている。

f:id:maromayubanana:20220709231514j:image
f:id:maromayubanana:20220709231540j:image

スナック菓子、カップ麺、ティーバッグのでがらし、インスタントのお味噌汁、レトルトのパスタソース、シリアル・・・”食”に関する労力や手間をほとんど排除。生活のにおいがするのに、そこに生活の要素は薄い。

ニュートンはひまじゃなかったら 万有引力を発見したか」

――――「虫の瞳」当日パンフレットより引用

f:id:maromayubanana:20220709231627j:image
f:id:maromayubanana:20220709231659j:image

彼女は生活への手間を排除し、意図的に”ひま”を創出している。ファストな食事、枕元にあつめられた衣服や装飾品、いつでも寝転がることができるベッド、外の世界を流しつづけるラジオ、脱ぎ捨てられた靴下。

見渡せば無数のコラージュ、キッチンは本棚。生み出した”ひま”のなかで、彼女はひたすらに本を読む。

菓子をつまみながら漫画を読む姿は”ひま”の謳歌・・・に見えるが、彼女がこの”ひま”の中でやっているのは絶え間ないインプット。”ひま”のなかで頭を”ひまじゃない”状態へ。外から分かりづらい、この閉じた相反する荒波で、彼女は万有引力を発見できたのだろうか。

 

トム キラン

f:id:maromayubanana:20220709231743j:image
窓に向かって座る彼の視線を追う。向かいの建物の色鮮やかなドアが見える。

壁には2019年のALS嘱託殺人や介護に関するレポート。

振り向けば、ALS患者を演じる彼。指示棒と文字盤が私と彼を繋ぐ。

展示の終了時間間際だったが、どうしても聞いてみたい質問があったので彼に話しかけた。

以下は文字盤を介しての、彼と私の20分強の会話の記録である。*1

 

―――こんにちは。少しお話いいですか?

(頷く)

―――この4日間、窓の外の景色を見ていて、なにかを見つけたり思うことはありましたか?

(あります)

(向かいのドアのそばにモヤモヤしたものが見えて、それが怖かった)

―――それを…感じたときにすぐ、誰かに伝えることはできましたか?

(できなかった)

―――・・・。(窓の外をしばし眺める。数秒では全く変わらない景色。)

 

(あなたはALSを知っていますか?)

―――知っています。虫の瞳を観るにあたって、調べてきました。主にNHKスペシャルの記事を読みました。

(林さんを知っていますか?)

―――掲示にもある、彼女ですよね。知っています。

(林さんのSNSを見たことがありますか?)

―――NHKの記事に抜粋されているものは拝見しました。介護している人が自分の介護に来てくれた他の人に対して「ごめんね」と謝ることへの気持ち、趣味のTVでのテニス観戦のために置いた鏡に自身の今の姿が映ってしまうこと、そして筋力が衰えたことで目が開きづらくなり、いつか目が開かなくなるかもしれない、という恐怖を覚えたこと・・・・・・私は自分の目で見たものを、その光景を誰かに伝えることが好きで、たぶんそれが生きがいなんだと思うんです。だからもし私の目が開かなくなったら・・・おそらく私は死を望んでしまうのではないかと怖くなって・・・それで、最初の質問をしました。

(それがあなたの気持ちなんですね)

―――はい。

NHKスペシャルについては批判もあった。偏った目線で、多角的な検証がされていないと。)

(ALS患者はSNSで多くの情報に触れる。ストレスから、心を閉ざしてしまう)

―――人は、主観的ないきものですから、難しいですよね。・・・最近は「悲しみや苦しみはその人だけのものだから、他人がその大小を決めてはいけない、本人が決めていいんだ」と言われるけれど、それを突き通すと、この事件のようなことが起きてしまう。だからその人が選べる選択肢を増やせたらいいなって・・・。

私、人生って砂利道みたいなものだと思うんです。人それぞれに砂利道があって、そこを裸足で「痛いな、やめたいな」って思いながら進む。でもたまに、とても綺麗な石を拾って…それは自然のものかもしれないし、誰かが置いてくれたものかもしれない、それをポッケにしまって、「痛いけどもう少し進んだらまた綺麗な石があるかもしれない」と思いながらまた歩く。それが私の人生観なんです。だから、私も他の人の砂利道に綺麗な石を置いてあげられたら、人生の糧になれたらいいな、って思っています。

 

(あなたのお仕事は?)

―――あなたのお仕事・・・私のおしごと??

(頷く)

―――インフラ関係の仕事をしています。…(仕事の簡単な説明)…思えばこの業界に入ったきっかけも・・・私は文系なのでものを作ることはできないし、エンジニアでもない。でも私が関わることで、インフラが当たり前に普及して、こうやって快適な環境で、アートで表現したり楽しんだりできる余裕を社会に作れたらいいな、って・・・そう思って働いています。

 

(ありがとう)

―――こちらこそ、長々とお付き合いいただきありがとうございました。また、どこかで。

 

彼は答えそのものはくれない。情報と思考のきっかけを与えてくれる。

彼の指し示す文字を集中して追い、時に汲み取れない意図に互いにストレスを覚えながら、今度は取りこぼすまいとさらに感覚を研ぎ澄ませ、かつ同時に自分の回答も模索と構築を繰り返す。その中で私はいまの私の立ち位置を再確認し、自分にできること、ありたい姿を見つけることができた。

一方で、私ばかり話してスッキリしてしまったことについて反省している。自分の気持ちを自由に伝えられない不自由さについて質問をしたくせに、彼のそのストレスを慮ることなく、彼の話を聞くことができなかった。せめて、この会話が彼にとって光る石の欠片になれていますように。少なくとも私はこれから、久しぶりに思い出させてもらったこの青臭い気持ちを貫いて、私の仕事を全うする必要がある。

 

六角形の視界、その希望

この「虫の瞳」を見に行くにあたって、私なりに“孤立“を考えようと、提示されていた「変身」や、個人的に孤立の極みと定義している「よだかの星」を読むなどしていたが、最初の中野さんの部屋でメトロノームのリズムにのまれた瞬間、まったく見当違いの予習をしていたのだと痛感した。

 

ここで”孤独”と”孤立”の定義を確認しておきたい。

孤独

① みなしごと、年とって子どものないひとりもの。また、身寄りのない者。ひとりぼっち。ひとりびと。
② (形動) 精神的なよりどころとなる人、心の通じあう人などがなく、さびしいこと。また、そのようなさま

孤立

① 他から離れて一つだけ立っていること。また、仲間がいなく一人ぼっちなこと。他の助けがなくただ一人でいること。
② 対立するもののないこと。対応するものがないこと。主として、「孤立義務」などと法律上の語として用いられる。

※精選版 日本国語大辞典より引用

 

f:id:maromayubanana:20220709231956j:image

私は”孤独”と早合点して虫の瞳に挑んだが、そこに展示されているのは”孤立”のほうであった。この展示を見た方々は様々な感想を持たれていると思うが、こと私にとっての「虫の瞳」は、とてもポジティブで居心地の良い空間だった。

”孤=個”が自分の足で”立”っている。

他者から離れて、分離されることは悪いことばかりではない。人間は”個=孤”の時間がないと自我を築くことができない。社会で生きていくためのその”自我”を展示していたのがこの「虫の瞳」であり、五者五様の”自我”に没入することで、いっそう自己と他者の線引きが明確になされているということに気づく。そして他者の立ち方を知れたことに、自分とはまったく異なる佇まいであることに、とてつもない安堵を感じた。

自分と他人は違う。当たり前のことだ。

星占いに血液型占い、どうぶつ占い、昨今でいえば16タイプ診断など、性格診断は定期的に流行する。私たちは自分が何者であるかを知りたがり、カテゴリに当てはまることに安心する。また多様性の概念の存在も周知され始め、個人が個人たることも肯定され、自分に向き合える人も増えた。その反動として、自己の正当性を拡大し他者に投影する、自己のものさしで他者を測りきろうとする風潮もみられる。

人は人ごとに単位がある。同じものさしでは測れない。

自分の単位はなにか、に加えて、他者の単位は何か。それを知ることがこれからの社会を”生きやすくする”いちばんの近道なのではないか。こんなに単位が違うなら、すべて自分の思い通りにいくわけないじゃん。だから知ろうとしないといけない。自分のことも、他者のことも。知って、考えて、落としどころを探していく。それが人といういきものの目指したいところじゃないだろうか。

 

知らないものを知ろうとするのは、怖い。怖いけど、知らないまま生きていくのはもっとつらい。

だから私は虫の瞳で、複眼で視界いっぱいに他者をならべて、相手の単位を知る動体視力を鍛えたい。

揺れる草むらのなかで、風に挑むように視界を横切っていく君を、見逃したくないから。

 

*1:※文字盤は基本的にひらがなであるが、読みやすさのため一部、単語による補強・変換や句読点の挿入等をしています

あなたに出会えてよかった―第12回 せんがわ劇場演劇コンクール とある一般審査員の奮闘記

2022年5月21日と22日、調布市せんがわ劇場にて行われた「第12回 せんがわ劇場演劇コンクール」に一般審査員として参加しました。

とてもとても得るものの多かった魅力的な2日間と、それに至る道のりをここに記しておこうと思います。

 

 

コンクールに至るまで

3月下旬

いきなり時は今年の3月に戻る。(私にとって)大事なことなのでここから書いておきたい。

3月某日…あの日。納得のいかないプロセスを踏んでいく公開審査、壇上から一方的に放たれる言葉、それらを観客として傍観することしかできなかった。声を上げてみたけれど、その事すらこのやるせなさに加担してしまっているのではないか、と自己嫌悪に陥った。

芸術を盛り上げるはずのイベントがこんなにも士気を下げるものならば、傷つく作り手を見ることになるのならば、それがとても苦しいと感じてしまうならば、私はいちど観ることから離れたほうがいいのかもしれない。

「観客は無力だ。」

インスタのストーリーズでそう嘆くことを選択しているダサい自分にますます嫌気がさして力なく歯を磨いていたら、画面右上に赤く通知がともる。

私はとてもパワフルな、大切な対話の相手だと思っています。あなたのエネルギーは舞台の上や奥に届いていると思います。

以前感想を書いた作品に関わっていた方からのDMだった。

思いもよらぬあたたかい言葉に、大袈裟でなくわんわんと泣いた。今も思い出してちょっと泣いてる。優しさに甘えてさらに弱音を吐いて、さらにあたたかい言葉ではげましてくださって、涙でしおしおになりながらもあと少し観客として踏ん張ってみようかな、と顔をあげることができた。

 

そんな折、せんがわ劇場Twitterアカウントで一般審査員を募集していることを知る。

www.chofu-culture-community.org

2022年5月21日(土)、22日(日)に開催する第12回せんがわ劇場演劇コンクールで、オーディエンス賞の審査をする一般審査員を募集します。

表彰式後は、ファイナリスト、専門審査員、一般審査員が参加し、直接意見交換ができる「アフター・ディスカッション」も開催します。
ご応募お待ちしています。

 

せんがわ劇場演劇コンクールとは
調布市せんがわ劇場は平成20 年に開館した調布市の公共劇場です。 

(中略)

コンセプトは「出会い」。批評の言葉、観客、アーティスト同士など、さまざまな出会いを提供し、従来のコンクール以上のコミュニケーションを目指しています。 本コンクールではとりわけ、批評の言葉を大切にしています。全専門審査員が全ファイナリスト団体について直接講評し、その後、一般審査員と参加団体も交えて講評をもとにしたディスカッションを行います。

 

要綱を読んで、観客は無力だとか、感想を直接伝えるすべもあまり無いのに消費するばかりなんだとか、そうやって弱者ぶって可哀そうぶっている私に、ゲンコツをもらったような気がした。あの日のあれが全てではないのだ。

それにあの日の審査の過程にあんなに文句をつけたんだから、私自身もちゃんと“審査する苦しみ”を味わったほうがいい。頭も心もぎゅうぎゅうに絞って考えて、全力で観客を全うしてみたい。

そう思って締め切りいっぱいまで「意気込み:200字」を練りに練り、意を決して鼻息荒く応募したのだった。

 

4月中旬

一般審査員内定のメールを受領。

「やった!内定だ!」とウホウホする気持ち2割、

ふと冷静になって「えっでも素人なのに…劇団のひとと直接ディスカッションって…」と急速にビビる気持ち8割。

先日のコンクールでの縁で相互フォローになったオジサマが前回一般審査員を務めておられたので前回の話をきいたり、頼りになる運営の方について伺ったりするなど。その節はありがとうございました。

とりあえず体力をつけたほうがいい気がする!とswitchのフィットボクシングの強度を上げた。汗だくで空を殴り不安を紛らわす日々が続く。

 

5月上旬

一般審査員むけの説明会開催。

せんがわ劇場現地での参加、Zoomでのリモート参加どちらでも可能とのことだったので、私はZoomを選択。直前まで子供を風呂に入れていたのでその辺に落ちてた服を慌てて着て説明会に滑り込む。

 

説明会では運営スタッフの紹介、当日の流れの説明、一般審査員の簡単な自己紹介、質疑応答が行われた。

オジサマからの事前情報でやんわり情報は入っていたが、メイン運営スタッフの方々は今までの本コンクールでの参加団体の方だということに改めて驚く。非常にアットホームな雰囲気。

質疑応答では、

SNSでつぶやいてもいいか?」(A:審査員をやることは呟いてもいいが、コンクール終了までは具体的な感想は控えてほしい)

Youtubeアーカイブは残るのか?」(A:権利の関係上、アーカイブは残さない予定)、

「参加団体とアフターディスカッション後も質問できる時間はとれないか?」(A:現状組み込むことは難しい、意見は来年に活かしたい)

などの質問が。

「長丁場でおなかが空きそうなので、おにぎりとかバナナを持ち込んでもいいですか?」

って質問はビビってできなかった。あとでメールで聞こうっと。そう思っていた時期が私にもありました。(←結局聞くのを忘れた)(結果として控室には持ち込んでも良かったし、お菓子やコーヒー、お茶などを用意して頂いていた。ホスピタリティ◎)

最後に運営の方から

「それぞれ贔屓の団体や俳優がいらっしゃるかもしれませんが、今回はいちど気持ちをフラットに戻して見て、審査をしていただきたい。」

との言葉。

ただの観客でもない、”一般審査員”という絶妙な立ち位置。気を引き締める。

 

 

コンクール1日目


f:id:maromayubanana:20220608011843j:image

いよいよ迎えたコンクール当日。

寸胴いっぱいにこさえたカレーを、

「2日間これで生き延びて!じゃ行ってくるね!!」

と家族に託し、意気揚々といざ仙川へ。井の頭線京王線が別物であることに駅で戸惑う。文字が読めてよかった、案内看板があってよかった。都会の乗り物ムズカシイ。

 

霧雨の降るなか若干迷って島忠ホームズを横目にながめつつ、なんとか劇場に到着。

2階にある一般審査員の控室へ。

説明会で画面越しにお顔を拝見したみなさんと初対面。

劇場の近くにお住まいの調布市民の方から、観劇好き、年間100を超える観劇数を誇る猛者、制作や俳優として演劇に関わりのある・あった方、そして私のように勢いではるばるやってきたゴリラ、と充実のラインナップ。

聞こえてくる演劇談義をコソ聞きしたり、席の近い方とおしゃべりをしながら定刻を待つ。2日間とも同じ運営の方が一般審査員専属でアテンドしてくださるとのことで安心する。

 

12:40、全員がそろったところでスケジュールの確認とあらためて審査基準の説明。

一般審査員の任務は基本的に3つ。

  1. ファイナリスト5団体の作品をすべて観ること
  2. オーディエンス賞を決めるため、2票を投票すること*1
  3. 審査会と表彰式に参加すること

上記3点に加え、任意でファイナリスト団体とのアフターディスカッションに参加する。1日目は約5時間、2日目は約8時間強の長丁場。フィットボクシングで鍛えたゴリラは最後まで生き延びることができるのか?!膨らむ期待と緊張とともに、劇場後方の一般審査員席へ向かう。

いよいよコンクールスタート!

 

①盛夏火「スプリング・リバーブ

唐突に花キューピットで届けられる大量のラベンダー、サンリオ派vsサンエックス派の戦いの記憶、トランスフォーマーカスタムロボの話をしたい俺、なんだかかみ合わない話、から発覚するタイムリープ

時をかける少女漂流教室をメインにして襲い来る俺たちの青春。みはるさんはみくるちゃん、まるで2010年前後のニコニコ動画と見紛うかのように情報が右から左に駆け抜ける。

マーシャルのアンプ、スプリング・リバーブ…残響の中死ぬかと思った。なんとか踏ん張って生き抜いた先で見たものは、いにしえのあの真っ赤なTシャツ……

前半でばらまいた伏線をすべて回収しきって鮮やかに去る。残していったのは強烈な爽快感と、残り4団体がカーテンコールをするか気になっちゃうというとんでもない爆弾であった‥‥オープニングにふさわしい見事なブチ上げ花火。「楽しく生きる」姿はとてもパワーをもらえることなのだと再認識。

 

②ほしぷろ『「なめとこ山の熊のことならおもしろい。」』

あなたは”人ならざるもの”をその眼で見たことがありますか。

仕事を果たし、約束を果たし、命を果たしたものの美しき解脱。命をこの世に縛るしがらみをひとつひとつほどき、その叫びはいつしか歌へと変わる。それを見つめる小十郎の慟哭。それは己のしがらみを熊にも課してしまった罪悪感か、それとも先に解放された熊への羨望か。

現代人となめとこ山で生きた小十郎が行き来する。

殺傷と距離ができている私たち。資本主義のなかで生きていかねばならない小十郎と私たち。私ちは何を殺して生きているのだろう。スズランテープで作られていく山、川、くしゃくしゃの街。

その風景を見て「おもしろい」とこの作品を消費している自分に気づき、静かに去っていった彼女を思う。

 

エリア51『てつたう』

そこから漏れる光は記憶の底の光。それを見たとき私は「見つかった」と思った。

離したくなかった手、離してしまった手、ハンドルを握る手、体を這う手、幼い私の目を覆う手、触れ合うことのない挙げられた手、無遠慮に肩に置かれる手、間違う手、見知らぬ人に握られる手…すべての居心地の悪さが等しく置かれる。それは数多の「手」をしっかり”見ている”証。やさしい眼差し。

割り緞帳から深淵を覗く。その時、深淵もまたこちらを見ている。

じゃあ私が誰かを見る眼差しは?その手はこの目にどう映っている?誰かの背中にからだをあずける。誰かのからだをあずけられ、支えているのか押し返しているのか。背中合わせで誰か、が、見えない。

はたまた、私はシステムを手放せるだろうか。手放せたとして朱に染まる街を、この社会を生きていくことができるだろうか、道を作る事ができるだろうか。…私の手がいま握っているものは、このみぞおちに刺さるものは、いったい何だ。

 

転換中

せんがわ劇場演劇コンクールは完全入れ替え制。観客は1公演おわるごとにホールを出ることになる。私たち一般審査員は次の団体への転換の間、控室に戻り感想をまとめる。

手元のメモ用紙に感想をまとめてもよし、他の一般審査員と語らってもよし。

そして「作品への感想」「作品について聞きたい事」の2種のカードが配布され、感想・質問を記入して質問箱へ投函。これはアフターディスカッションでのつかみのネタとして使用するほか、後日PDFにまとめて参加団体へ渡されるとのこと。

 

1日目終了

3団体分を観劇しカードを投函して明日のスケジュールを確認したら、17:30ごろ1日目は終了。各自散会していくなか居残るしゃべり足りない数人は、あれやこれやと感想や疑問点がとまらない。

「なんで釣りだったのかな?」

「よっ友と釣り友って似てないですか?」

なんて話していたら

「よっ友、よっと、ヨット、だから釣りなんじゃない?なんて僕らは裏で話してました」

と、参加団体アテンドをしていたはずの運営の方もぬるっと議論に参加してくる。もうみんな喋りたくて仕方がない!

「ねえちょっと待って一緒かえろ!しゃべり足りない!!」

部活終わりのJKテンションでオジサマをとっつかまえ、帰りしなにもう少し踏み込んだ議論。ついでに乗り換え駅まで連れてってもらった。ありがとうございました、おかげで無事にジャングルに帰る事ができました。

 

 

コンクール2日目

f:id:maromayubanana:20220608011856j:image

1日目とは一転、気持ちのいい快晴のなか、やっぱりまた若干迷って島忠ホームズを横目に見ながらぐるっとまわって劇場へ。なんで2日とも同じ道通って間違っちゃったんだろう…

11:00、控室に用意していただいたお茶やコーヒーをいただきながら、昨日書きたりなかったカードを書いたりおしゃべりをしながら開演を待つ。

 

④安住の地『アーツ』

趣味:美術館めぐり、観劇、音楽鑑賞

プロフィールに並べられがちなこの言葉を、もう軽々しく使えなくなってしまった。

卓越した感性、技術、魂の叫びが呼応する。その息づかいは命の灯火。「楽しい」から波紋のように広がり発展して産み落とされた“アート”を、“消費”することしかできない私。解説をよんでふうん、とわかった気になる。勝手に点と点を結んで悦に浸る。それで本当に、アートから私は何かを受け取れているのだろうか。

筆を持ってみる。私自身からは何も湧いてこない。ならばせめて、せめて彼らの生き様を覗かせてはくれまいか。わからないかもしれない、共感できないかもしれない。でもその生きた証をこの手のひらで確かめさせてくれないか。それは私が、生きるために必要だから。

 

⑤階(缶々の階)『だから君はここにいるのか』【舞台編】

消された台詞、消された登場人物。

俳優が次の役を生きていく一方、消された登場人物は作品という世界にどう存在しているのか。

居るはずだった自分が登場しない世界。ならば消された俺の存在意義はなんだったのか。

板の上にあるもの、そして板の上にのらないもの、すべて必要で必然。チェーホフの銃、を染み入るように体感した。ふたりのハッピーエンドを願ってやまないラブストーリーのように、ベッドサイドで読み聞かせてもらうおとぎ話のように、そこに居ないはずのだれかの幸せを祈る。私はきっとこれから、金色の缶を手にとるたび彼に思いを馳せるのだろう。

 

転換中・終演後

回を追うごとに口数が少なくなっていく一般審査員たち。というか私。一番うるさい私が黙るからめっちゃ静か。糖分補給しようとお菓子をいただいたけど、どんな味だったか正直記憶にない。

立て続けに5本も見ると、否応がなしに各作品の秀でているところと課題が明確にみえてきてしまう。しかもその長所短所がぜんぶベクトルが違うので、単純に比較することができない。

完成度が高かったのはあの作品、惜しかったけど可能性をとても感じるのはこの作品、自分に一番共鳴したのはその作品…どれも良くて自分の手持ちの2票をどこにどう入れようか。ただの観客ではなく、”審査員”という肩書きの重さもじりじりと呼吸を浅くさせる。

運営の方への質問もよりマニアックなものになっていく。応募総数は?照明のつくりはどの程度要望をひろうのか?上演順はどう決めるのか?というコンクールへの質問から、昨今の演劇のフトコロ事情や運営のむずかしさについても。参加団体のコンクールまでの道のりの解像度が上がる。

 

全作品へのカードを投函し終えたところで、一般審査員ひとりひとりの所感を述べていく。

どれが好きだったか、どんな基準で投票しようとしているか、オーディエンス賞はどうあるべきか……

みんな考えも好みも違っていて、改めて芸術作品を評価する難しさに胃がねじ切れそうになる。

「演劇は並べて比較することはできない。自分の好みをどうロジックで正当化させるか、なんですよ」

最後に語られた方のこの言葉がすべてだと思った。腹をくくって自分の好みを、この生々しい感覚を組み上げていくしかない。

 

投票

全員が話し終えたらいよいよ投票。

目の前には投票箱。覚悟を決めて二枚、書く。

「これってもうお客さんの分は入ってるんですか?え、じゃあ私たちが投票し終えたらすぐ開票?ここで?!ヒエーーーッ!!」

日常生活で「ヒエーーーッ!!」って叫ぶことあります?

私は年甲斐もなく叫びました。

だって表彰式で発表されるものだと思うじゃん!ここで開票なんて!待って心の準備ができてない!

 

開票

投票箱をひと混ぜして、開票。

開票がすすむたび息をのんだり、吐いたり、うなったり。

増えていく正の字、高まる心拍数。

すべて開票され、オーディエンス賞が目の前で決まった。弾けるような拍手。すごい、決まった!!

自分の予想・投票通りだったひと、そうでないひと、様々だったと思うけれど、妙な解放感や達成感と高揚感。

表彰式で発表するから結果はまだ黙っててくださいね、と念を押され、しばしの休憩へ。またみんなで結果の感想をやいやいと話し合う。時刻はすでに15時、プレッシャーで食べれていなかったおにぎり弁当をぎゅう、と詰め込む。美味しい。やっと食べ物の味がする。

 

表彰式

15:30、ホール観客席に参加団体と一般審査員、壇上に専門審査員があつまり表彰式開始。なお全作品およびこの表彰式はYoutubeで生中継された。

 

オーディエンス賞:安住の地『アーツ』

まずは観客の投票により決定したオーディエンス賞から。

エンターテインメントとして完成度の高かった安住の地『アーツ』がオーディエンス賞受賞!おめでとうございます!!安住の地にいっぱい大きな拍手を届けられてうれしかった。

 

講評

ここから専門審査員の方々による講評タイム。各作品につきひとり2分ずつの講評がおくられる。

みなさん誠実に、的確に、なにより愛と期待でいっぱいに言葉を紡いでいて、講評をききながら早くも涙腺のバルブがゆるみ始めてしまう。

とても印象的だったのは、長田さんから階へむけたことば。作品を観て、自分が演劇をはじめたばかりのころ…がらんどうの講堂のカギを開けた時のことを思い出した、と。それは専門審査員としては私的すぎる言葉なのかもしれないけれど、胸いっぱいの感情を伝えようと語られるその姿を見て、なんかもう、勇気を出してここに来てよかったと、本当にそう思った。今このホールは演劇への愛で満ち満ちている。

 

講評が終わると、各賞の発表へとうつる。

 

俳優賞:瀧澤 綾音(ほしぷろ『「なめとこ山の熊のことならおもしろい』)

丁寧に織られた演技の瀧澤さんが受賞。

体調不良で表彰式を欠席されていたので、ほしぷろの星さんが代理で表彰状を受け取る。壇上で同士の受賞を膝をガクガク震わせて喜ぶ星さんをみて、ついに涙腺が決壊。マスクして泣くと、あとあと顔が大変になるから我慢しようと思ってたのに。うう、うう、おめでとうございます。

 

劇作家賞:神保 治暉(エリア51『てつたう』)

発表と同時に上がる雄叫び、ガッツポーズ。

鼓膜と網膜がそれをとらえた瞬間、文字通り泣き崩れてしまった。講評の時点で胸いっぱい、よかったよかったと思っていたけれど、かながわ短編AWでの講評に真摯に向き合い「てつたう」をつくり、それがしっかり花開いて受賞に至るという、のが、とても誇らしくて嬉しくて、、とても報われました。いや私が何をしたわけではないんだけれども。

この2日間は一般審査員としてなるべくフラットに、エリア推しであることはいちど脳みその外側に置いて挑んでいたため急に私的な感情がドワッと押し寄せてきて、しっかり泣いた。ああ、よかった。おめでとう、ありがとう!カンパニーみんなで作り上げたというテキストの評価がとても高かったので、台本販売を鼻息荒く待っています。

 

演出家賞:星 善之(ほしぷろ『「なめとこ山の熊のことならおもしろい」』)

スズランテープや養生シートでつくられる自然や街、都会や大自然の映像などで神々しい画を作っていた星さんが演出家賞を受賞。俳優賞のときとちがってちょっとあ然としながら壇上にあがり、でも「メンバーみんなで作り上げた作品だからみんなの賞です」と熱く語る星さん。とても良い創作環境だったんだろうなあと、壊れた涙腺から放水が止まらない。

 

「ねえ!涙とまんないんだけど!!」と隣の方の肩をポカスカしてしまう私に「あなたがマジメだからですよ」と言葉をかけてくれて、その優しさにありがてえと思いつつ、でも違うんです、情緒が原始的なだけなんですと呻きながら必死に目頭を抑える。

 

グランプリ:階(缶々の階)『だから君はここにいるのか』【舞台編】

脚本・演出・演技すべてで匠の技が光っていた階がグランプリ受賞!おめでとうございます!!

弾けるような拍手のなか、劇作の久野さんが来年このせんがわ劇場にて【舞台編】【客席編】の2編を上演することを宣言。颯爽と締めくくる姿がとても格好良くって、作品への間違いない自信やこれからまだまだ発展していく予感を感じさせられた。

 

アフターディスカッション

表彰式が終わり記念撮影のあと、アフターディスカッションのため参加団体が待つ楽屋やミーティングルームへ向かう。

今回のアフターディスカッションは各部30分ずつの二部制。事前に希望の参加団体を第3希望までアンケートで聞かれ、運営により2団体へ割り振られる。見た感じ、みんな希望の団体に行けていたように思う。

「あーーーー緊張するう!」と何度か壁に刺さりながら、私はエリア51の待つミーティングルームへ。

 

第一部:エリア51

ファシリテーターに専門審査員の高田さんを迎え、第一部がスタート。

若干(どうする、どうする?)な手探りの雰囲気のなか、観劇後のパヤパヤした頭で私が投函したウルトラ級に抽象的な質問が一番に引かれてしまい、非常に申し訳なかった…早々に自分の質問だということを申告し、補足説明というか弁解というかただのお気持ち表明のようなオタクムーブをしてしまいとても反省している。叶うならもう一回やり直したい。

ほかに「照明づくりはどうやっていますか?」「男女の逆転した役の演じ分けは何に気をつけましたか?」などの質問カード。一般審査員控室で出た議論などから質問意図を補足したり、さらに個人的に聞きたいことを重ねたり。

面白かったのは冒頭の割緞帳はどうやって調整したのか?という話。緞帳の制御は秒数で。どのくらい緞帳を開くかは和室の稽古場でふすまを使って「これじゃ見切れちゃうね」なんて言いながら練習したとのこと。

そして「てつたう」で印象的に使われていたコンタクト・インプロビゼーションについて。出演されていた熊野さんがちょうどコンタクト・インプロを習っていたので、やってみようとなったと…てっきり全員経験者だと思ってたけど違うらしい。それで「やってみよう」でできるもんなの?!と白目をむいた。「体幹レーニングとかたくさん練習したよね~!」とニコニコ語るみなさんが眩しくてしかたない。あのなめらかな動きを実現するために相当練習したんだろうね、と観劇後に一般審査員控室でも話題になっていたけど、たぶん私たちの想像の百倍くらいは練習されてたんだろうな…

さらにあのコンタクト・インプロはガチガチに振り付けが決まっているわけではない、という事も驚き。1~10まで細かく決めているのではなく、1・3・5・7・9…と要所だけ決めてあり、その間はアドリブのように、その日のコンディションで繋いでいくので毎回違う、と。まさに「てつたう」の体現だな、と感服した。

最後に劇作・演出の神保さんから「作品を見てどう受け取ったか、何を思ったか聞かせてほしい」との質問。ここでも主観的直観的に話してしまい、自分の語彙力のなさに冷や汗をかきながら、「覚悟を問われた気がした、そして考えの異なる隣人への自分の視点にも気づいた」という事を…伝えたつもり……伝えたかったんです……

ちょっと場が温まってきたぞ!という頃合いで第一部終了。あっという間だった、もっと3時間くらいほしい。

となりの方が「あっなんであのシーンは釣りだったのか聞くの忘れた…」と小さく呟くものだから、「今聞きなよ!もうこんな機会ないよ!」とたきつけ移動直前に駆け込み質問。神保さん、最後まで丁寧にお話ししてくださってありがとうございました!

 

第二部:ほしぷろ

ほしぷろさんの待つ楽屋の扉をおそるおそる開ける。

「すごい、楽屋ってほんとに女優ライトあるんだあ!」と安直な感想を飛ばしつつ、第二部スタート。ファシリテーターは養生シート演出をベタ褒めされていた長田さん。

第二部ではその場にいる一般審査員の聞きたいことを書き出して質問していくスタイル。

まずは原作未読の方からの、どこまで原作でどこからオリジナルなのか?という質問。原作ガチ勢の私と未読の方の受け取り方が異なっていることなどが話題に。

また、タイトルを原作の「なめとこ山の熊」ではなく「なめとこ山の熊のことならおもしろい」とした理由は?との質問。答えを聞く前に、見てる側はどう考えた?と各々語り、ここでも色々な解釈が存在することにわくわくする。ちなみに私はこの作品を見て「おもしろい」と思って消費している自分自身が面白いな、と感じていた。対する答え…このタイトルに至る経緯は「仮題は『小十郎』だった、でもメンバーで話しているうちに小十郎をやりたいのは自分(星さん)だけだということに気づき、話し合いを重ね、ならばキャッチ―なひとことめをタイトルにしようと思った」とのこと。

印象的につかわれた養生シート演出の誕生秘話や、スズランテープの意図、投影された映像についてなどの質問も。殺生と距離のあることを語るシーンでのビルの映像と、山のシーンでの自然の映像は同じ街で撮影したと聞きふり幅に驚いた。あとあのピンクの熊ちゃん(ダイソー出身)は2代目で、初代は映像に出てきたあの子だというのもマル得情報だった。

いいなあ、と思ったのは福島での公演のお話。

劇中で使ったLED、もともとは「街の光」としていたが、福島での公演で「これ、磐越道」とアドリブで言ってみたところ、観劇してた子供たちから「磐越道はそんなにピカピカじゃないよ!」と声がとんできて、そのとき「じゃあ首都高にしよう」と今回の台詞に至ったとのこと。双方向の演劇というコミュニケーションの賜物だなあと感動した。観劇した子供たちが「おもしろかったあ!」と言ってたけどどう受け取ってるのかな、と穏やかに語っていた星さん。自然の中での公演はとても素敵だろうな。私も子供と一緒に、風を感じながら三角座りでほしぷろさんの作品を見てみたい。

 

よっしゃノってきた!という頃に第二部も終了。もっと時間ほしい!駄々をこねつつ、このシーン好き!あのシーンも!と拳を突き上げながら楽屋を後にしました。お騒がせしてすみませんでした。。

 

帰りの会

ディスカッションを終え、ホールへ集まる面々。

ディスカッションどこ行ったの?どんな話が出た?ねぇこの後ラーメン食べに行かん?…と解放感からおしゃべりが加速する。おなかすいた。全員がホールに戻ってきたら、最後の締めの会がはじまる。

まずはそれぞれの団体のディスカッションでどんな話題が出たか、というフィードバック。自分が参加したところ以外のお話を議事録かなにかでいただけないか?と要望を出していたので、それに応えて頂けて大変うれしかった。安住の地の衣装は絵画モチーフだって!うわー最の高じゃん。そして後日デザイン画を安住の地さんが公開してくださってこちらも最&高。

そして運営スタッフさんも含め、各団体の告知タイム。

「明日小屋入りです!」

「僕も明日小屋入りw」

「諸々の申請が!とにかく!大変で!!」

など、ホールに響く思いの丈にホカホカ笑う。

締めの締めは企画監修を担当された徳永さんのお話。毎回改善を図り、コミュニケーションを大切にしているという本コンクール。試行錯誤で心を砕いてこられたことを感じてまたちょっと涙腺がゆるみそうになる。

時刻は19時すぎ。会としては締めるけど、会場は20時まで開けておくのでその間はお好きにどうぞ、とありがたい配慮。これもできれば最後に質問タイムが欲しいと事前に出した要望のひとつだった。

後ろ髪をひかれつつ立ち上がったタイミングで、表彰式を欠席されていた瀧澤さんが到着。急きょ瀧澤さんに表彰状をお渡しすることに。やんややんやの大拍手、文字通りの大団円でコンクールは幕を閉じたのだった。

 

アフター

f:id:maromayubanana:20220608011921j:image

「暗い!夜だッ!!」

「せっかくだから劇場の写真とろう!暗い!」

良い感じの解放感で、暗いだけで楽しくなってしまっている私。

女子三人連れだって、ラーメンではなくて美味しいパスタ屋さんに連れてってもらい、「せっかくだから贅沢しちゃおう」とエビやらチーズやらのトッピングを追加する。

アフターディスカッションの感想とか、演劇を愛する人しかいない最高の空間だったねなど2日間のあれこれから、人生どう生きていくかの話に発展し、最後は一人ずつちょこちょこと抱えてるものを白状し大笑い。「それもっと早く言ってよ!」なんてツッコミをいれながら連絡先を交換した。濃厚な時間を過ごした2日間のおかげで友達できたよ。これ書き終わったら、教えてもらった現代サーカスをしっかり見るね。ツアーの会場でも会おうね。

 

特典

参加5団体の観劇・アフターディスカッション・表彰式出席・新たな友との出会い…と、これだけでもお腹いっぱいな一般審査員ですが…

なんとさらに!

今回のグランプリ・オーディエンス賞の受賞公演への招待も特典としてついている!

どうだ羨ましいだろう!!!私はもう来年の現場が決まっているのだ!!

受賞公演は来年の5月最終週~6月の頭にかけて上演される。ちょうど先週に昨年分の受賞公演があり、見に行った人の感想を見て嫉妬で奥歯を割りそうになっているけれど、私にだって来年の受賞公演が待っている…!

来年観ることができるのは安住の地「アーツ」階(缶々の階)「だから君はここにいるのか」【舞台編】&【客席編】。バックグラウンドの書き込みがかなり深そうな「アーツ」、今回は上演のなかった【客席編】も控える「だから君はここにいるのか」、どちらもまた大きな情緒変動でカロリーを使いそう。しっかり心を鍛えてガチムチゴリラとなって、またこの仙川の地に戻ってきたいと思います。

もちろん受賞公演のチケットは一般発売もあるよ!ぜひ劇場で心を震わせてほしい。

 

さいごに

まず何より、本コンクールの運営に携わった全ての方に感謝します。

事前説明会から当日まで、丁寧なアナウンスや動線の確保、スケジュール管理等をしてくださったおかげでストレスなく一般審査員に没頭することができました。質問や要望にもほぼ全て応えてくださりありがたかったです。通らなかったお願いは「Youtubeアーカイブ残せませんか?」くらいじゃないかな。本当に本当にありがとうございました。

 

せんがわ劇場も素敵な劇場だと思いました。

駅から近く、公園や商業施設などの生活のなかにポンっと存在していて、このコンクールをはじめ様々なワークショップや催しも多く、まさに「開かれた劇場」だと感じました。一般審査員の控室として使わせていただいたミーティングルームも光が入る明るい場所でとても快適でした。DEL=Drama Education Laboの取り組みも魅力的。私、生まれ変わったら仙川の子どもになりたい。

 

そしてともに一般審査員を務めたみなさん。

ややタメ口でいきなり話しかける私につき合ってくださって、本当にありがとうございました、お騒がせしました。ふだん孤独に観劇したり配信を見たりしているので、観た直後にみなさんと新鮮な感想を言いあえてとても楽しかったです。また来年せんがわ劇場でお会いできるのを楽しみにしています。

 

 

家に帰ってきて、あの時こうすればよかった、もっとこう伝えればよかった、コミュニケーションってむずかしいな、ウホホ……とバナナを食べながら反省したのですが、それと同時に血がめぐって体がほくほくする感覚もあり。

コロナ禍で思うように人に会えなくなって、大好きなライブや舞台も形が少し変わって、作り手の方々が苦しむ姿も見えて、でもそんな中私は作品を受け取ることができてとてもありがたい、はずなのに、なんだか視界が狭くなる気がしていた2年間。ひそかにやっているnoteに病みポエムを投稿するなど、いじけてジャングルでアリ塚をほじくっていた私にとって、このせんがわ劇場演劇コンクールは強烈なショック療法のようでした。舞台「 カモメ」観劇時には、このまま死にたくないけどどうすればいいかわかんない、置いていかないでなんて駄々をこねていた私ですが、この2日間で華やかな場・それを支える愛・産みの衝動・続ける苦労を目の当たりにして、”観る人”としての自分の立ち位置を確認することができました。きっとまた「私は作品を消費してるだけ」とか「観客は無力だ」とかアリ塚に指をつっこむ時もあるだろうけど、それも私のお家芸としつつ、「作りたい衝動」に「観たいという衝動」をぶつければいいんじゃないの、と雨上がりの仙川の風のにおいをかぎながら、素直にそう思えたのでした。

私はまたしばらくのあいだ、家族と生活の遂行を優先する者にもどります。

毎日タイムラインに流れてくる興味をそそる公演の感想や、現場に行きたいけれど配信で見るしかない公演に落ち込むこともあるけれど、私、観劇がすきです。せんがわ劇場演劇コンクールで、観客としての自信をちょっとつけることができました。

月並みな一言だけど、本心からの言葉で締めます。

あなたに出会えて、よかった!

 

 

*1:全作品を鑑賞されたお客さんは1票なので、倍の票を持つことになる。2票とも同じ団体へ投票/1票ずつ別の団体へ投票 どちらでも可。

生きるも死ぬも、自らの手で。 Anonymous Gods

神に何を祈ろうか。

 

明日いい事がありますように。

ごはんを美味しくたべられますように。

美しい木漏れ日を浴びられますように。

あたたかい布団で眠れますように。

 

あなたが、幸せでありますように。

 

 

サラサ

美しくあることを求められ、応えようと努力し、美しくあり続けた。しかし世間も母親も彼女の美しさに答えてくれなかった。恋人も「きれいだよ」と声をかけることもなかった。

だから彼女は自らの手で美しく人生の決着をつけようとした。運命のDIY。生き続けなければならない、という呪いからの脱却。

他人を通してではなく、自分で自分を愛して美しく幕をひいた彼女の最期は幸せだったと思う。美しさは散る瞬間の画ではなく、フレームの外にある。彼女の美はフレームの外で生き続ける。

 

ナオ

大切なものを大切にすること、を大切に生きてきた。

自分が大事にされなかったから。

でもそれを他社に投影せずに、自分の傷を自分に刻み続ける。大切なものは大切に、自分の棘で傷つけないように、だから距離をとる。サラサが求めた愛の形とは違っていたけれど、ナオはナオの理論でサラサを愛して大切にしていた。

一方自分自身に対しては自罰的で、負の連鎖を自分で断ち切らんとばかりに自身に刻む。でももう彫るところがない…永遠の痛みに限界を感じ始めた頃にアオイが現れ「新しいカンバスを」、と腕を差し出す。サラサとは対象的に、ナオは他人を通して自分を愛することを知る。

 

カスミ

世界の幸せの形が、この子に当てはまるだろうか。

世界に愛されなかった(と感じている)サラサに出会うことで、これから産まれてくる命が出会う世の中の不条理に、そして不条理が引き起こす(かもしれない)結末に気づいてしまった。自分が「かわいそう」な側にいて、それ故にこの子が不条理に出会う機会は「ふつう」より多いのかもしれないことにも気づいてしまい、この子の幸せは「産まれてこない」ことなのではないか、と。

感受性の強い彼女は揺らぐ。反出生主義的な迷いを抱えたカスミは、アオイの言葉で「フレームの外」に向けられる。ぎゅっと絞った焦点のその外側がきらめいていることを思い出す。

 

アオイ

彼女については、何を書いていいのかわからない。今という社会を生きる上で、アオイは私にとっての理想だ。

カスミを愛して、彼女の才能を愛して、オフィスごっこなんて揶揄されながらも彼女との幸せのために働いて、色々なものを飲みこんで。

「わたしたちはこの社会よりもマシ、かわいそうじゃないよ。」

この言葉を言えるまでに、言うために、彼女はどう生きてきたのだろうか。

様々な理不尽や不条理のなかから、美しいものを見つけ出す。大切にする。当たり前のことだけど、社会や日々に揉まれるなかで人はその煌めきをすぐ忘れてしまう。なぜこんな石ころを拾ったのかも忘れてしまい、手放してしまう。

でもアオイは丁寧にそれを磨き続けている。硬い黒い石のすきまからのぞく光を信じて磨いて、ざらついた岩石を美しい宝石に磨き上げて、それを他者と共有する。ひとに見せられたがたついた原石も「もう見たくなーい」とぼやきながらも尊重する。

アオイの根底にはとてつもなく深い慈愛がある。きっと社会や理不尽や不条理に絶望しながらも、あきらめずに愛そうとしているのだと思う。タトゥーを彫りにいったのも、産まれてくる子への誓いというか、十月十日のふたりぶんの血の巡り、陣痛のかわりを刻もうとしたんじゃなかろうか。

 

アオイをみていて、「親に求められるもの」ってなんだろうとも考えた。両の親がそろうこと?それは必須条件じゃない。母性と父性がそろうこと?それも男と女でなくたっていい。“母“性・”父“性と冠がついているけれど、必要とされるのは性的区分ではなくてきっと愛情の要素のことだ。そこが揺るがなければ、どんな家族のかたちでも「かわいそう」なんかじゃない。

 

フレームの外を愛するために

「生きづらさ」という言葉が散見されるようになった。今まで誰かの快のために犠牲になっていた人たちが声をあげるようになった。

生きづらい、いやだ、という声はさらにネガティブな反応も生む。捻じ伏せんとする波の重さにまた息ができなくなりそうだ。

 

濁流にのまれ流された地を裸足で歩く。尖った石で足の裏は血だらけ、いっそ歩くのをやめてしまおうか。そう俯いた先に微かなきらめき。それを丁寧に拾い握りしめて、また歩きだす。道の先にはまだいくつもの光がある。

 

そうやって生きていけたら。

いつかあの濁流も、皮膚を破る石ころも愛せるだろうか。


どうやったらそんな生き方ができるのだろう。

アオイと話がしたい。

私も彼女に、優しくされたい。

リフレインに塗る薬 ーエリア51「ハウス」―

白く四方を囲まれたマイ・ハウス。

そこで繰り広げられる、生活という名のリフレイン。

 

www.area51map.net

 

 

リフレイン

生きていかねばならない。食べなければいけない。

そのために働かねばいけない。

生かし続けなければいけない命が目の前にある。

この子の生殺与奪の権は私にある。しかし選ぶ余地はない。

生かし続けなければならない。食べさせなければいけない。

そのために働かなければいけない。

私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

世話をしてやらなければいけない。手をかけてやらねばならない。

そのために働かなければいけない。

この子の意志を尊重してやりたい。

そのために働かなければいけない。

私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

世話をしてやらなければいけない。手をかけてやらねばならない。

上下右左、うまく付き合っていかねばならない。

私の夢も叶えなければいけない。

しかし私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

世話をしてやらなければいけない。手をかけてやらねばならない。

この子の描くものをちゃんと見てやりたい。

私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

上下右左、うまく付き合っていかねばならない。

頭を下げなければいけない。

私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

この子の事を理解しなければいけない。

私は頑張らなければいけない。

ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、

これは身をちぎった痛みだろうか、それとも蓋をした腹の内の鬼が振るう金棒か。

この子と私の生活を遂行しなければいけない。

上下右左、うまく付き合っていかねばならない。

散らかった部屋を見られてはいけない。

大丈夫なので。大丈夫ですから。

 

チチ「ママと走るの?」

ママ「そう。いいでしょ?ほら行くよ!」

 

この子は私と走っていかなければいけない。

走らせなければいけない。

この子は私と、この子、この子は、私がこの子と、私は・・・?

 

チチ「太陽と目が合ったね」

ママ「太陽に目はないよ」

チチ「この時間になるとね、太陽とお話しできるんだよ」

ママ「なに言ってんの、そんなわけないでしょ」

 

頑張ってるから。普通に生きてるから。

どう見てるのか知らないですけど、これがうちの普通なんで。

 

 

ママ「頭をよぎっていたのは、自分のことばっかりだったんです。」

生活をすること、日々のリフレイン。

その中で持つものが増えていけばどうしたって優先順位づけが必要になってくる。

子を持てば、子の生命を維持し、社会で生活できるように育てるということが必然的に最優先となる。子は私なしでは生きながらえない。それは産んだものとして、生活を一にするものとしての責務だ。子の成長に喜びを感じながら、生活を遂行してゆく。

 

一方で、”わたし”がいつもその姿をうしろから見ている気がする。

気になるコンテンツとか、やりたい事とか、着たい服とか、やりたい仕事とか、できたであろう事とか、自分の半分を分けた子なのにわけわからんなコイツ、とか、他人からの視線とか、Twitter見たいなとか、いつまでこれ続くのかなとか、いろんなものを両手いっぱいに抱えてじっと私を見ていて、不意に私の眼前に抱えてたものを置きにくる。少しの罪悪感とともにそれに手を伸ばす。ごめんね、一瞬だけだから。

泣き声。

ああ、戻らなきゃ。

罪悪感は少しのいらだちとなって小指にからむ。寝顔を見ながら、さっきの一瞬でこの子を見ていればよかったと、やっぱり落ち込む。でもそんな私を”わたし”はじっとりと見ている。その視線をずっと突き放すことができない。

 

たいてい「何か」が起きるのは、”わたし”と目を合わせてしまっている時だ。

最優先事項はわかっているはずなのに。”わたし”より優先すべきことがあるのに。あの一瞬でもっと気を配っておけばこの子は泣かずにすんだのに。ヒヤリハットですんだ事もすまなかった事も、ぜんぶ私と”わたし”のせい。

 

チチ「ううん、足がない。チチの足がなくなった。チチの足どこ?」

 

血の気が引くとき、ざあっ、という音が私を”わたし”から引きはがす。

その音がすると勝手に身体が対処に動く。本能というものはよくできている。でも理性を持ついきものへ進化したならば、そもそも本能が動くような事態にしちゃあいけないのに。なぜ理性は”わたし”を排除しきれないのだろう、そんなことを考えながらきびきびと手当のため動く私の手を”わたし”は眺めている。またひとつ言えないことが増えていく。

 

 

「気持ちに塗る薬は、気持ちしかない。」

私たちはリフレインする生活のなかで、どうしてもやせ我慢をしてしまう。

やせ我慢というよりも、薬の施しをうけることで、必死にちぎってきた身の欠片の意味を否定されてしまうような気がして、大丈夫、普通なんで、必要ないです、とかぶりをふってしまう。長女の出産後、振り返れば私はあきらかに産後うつだった。風がふいただけで絶望にさいなまれていた。吐き戻しの染みだらけのよれた服に身を包み、いやにぎらぎらした目で「夫も子を見てくれますから、大丈夫です、悩みなんてないです!」と言い張る私。訪問してきた市の保健士は、何か言いたげにしつつも書類の「問題なし」の欄に〇をつけた。「ダメな母親」になりたくなかった私は、それ見て自分でひとつ退路を断ってしまったことに気付くも、その問題なしの〇を自らの十字架として背負うことで妙に安堵したのを覚えている。その後は結局、家族も自分自身も傷つけてボロボロになったけれど。

 

ノゾミ「気持ちに塗る薬は、気持ちしかない。」エリア51「女ME」より

 

他人に薬を塗ってもらわないと治らない傷がある。

塗り、塗られ、ぬぐって、また塗られ。

やさしく効く薬、

効くけどしみる薬、

ありがたいけど検討違いな処方の薬。

 

厄介なのは、塗った方がいいのはわかっているけど触れられたくない、という無意識の意地。他人に傷に触れられるのは痛い。触れられるくらいなら暑くても長袖を着て傷を隠してしまえ、そうやって傷を化膿させてしまう。周囲は薬箱を携え声をかけてくれているのに。

 

チチ「こっちはお日様だよ」

ママ「いいの!見つけてもらわないとね!」

ママ「お醤油、なかったら借りればいいし、縁側、なかったらピンポンするの。そうするぞ、明日から。」

袖をまくり、傷を見せる勇気。ママはその決意の姿で私に薬をぬってくれた。他人に薬を塗ってもらわないと治らない傷がある。治すには、まず傷を見てもらわなければいけない。へんな意地は捨てて、”わたし”ごと傷をさらさなければ、いつまでも息はできない。しみたって、変な臭いがしたって、一応薬は薬だ。薬が合わなかったら合わないと言えばいい。違う薬がないか一緒に探してもらえばいい。そしていつか私が薬を塗る側にまわったら、しみない薬か、変な臭いがしない薬か慎重に見極めたいし、傷に触れる手も優しくありたい。突き刺す西日ではなく、穏やかな木漏れ日となれたなら。

 

チチ「がんばれーっ!ママ、がんばれーっ!!」

こんなにそばにも、薬を塗ってくれる存在がいた。

転んで、薬を塗って、塗られて、立ち上がって、走る。この世に産まれてしまったら、みんな走り続けなければいけない。

チチ「ママと走るの?」

ママ「そう。いいでしょ?ほら行くよ!」

二人三脚、がどんどん増えて、ママが命を果たしたあともチチと共に走るひとが一人でも多くあってほしい。太陽に見つけてもらいながら、自身も太陽となって生きる。転んだ誰かのために振り向いた時、きっと虹は見えるのだと思う。

 

 

美しかったもの

ともすれば苦すぎるリフレインを飲み込めたのは、この「ハウス」がとにかく”美しかった”からだと感じている。

良薬口に苦しというけれど、人は初めて見るものを口に入れられたとしても、すんなりのみ込むのはなかなか難しいが、”美しかった”なら、薬をつつむゼリーのようにのどごしの良いものになる。それが、多くの人に伝えていくということなのだと身をもって痛感した。

白い線と黒の子

「ハウス」内と社会を分かつ線、それを幾度かうごかす黒子たちは社会にうごめく誰かの生活の一部。寸分違わず引かれる線と、毎朝投函される新聞、届く郵便物。否応なしに流れる社会の視覚化。

ハウスで虹を描くチチを照らす光、どこか靄がかかったような井戸端会議の廊下の蛍光灯、お前たちを逃がすまいと射貫く西日、雨の冷たい湿気、心をかき乱すテレビの三原色、浸食する鬼の青い瞳、隔絶された「ハウス」の壁、と意地をとりはらっていく白。

 

止まらない身体

走る、回る、飛びのる、手を引く、よりかかる、投げ飛ばす。

絶え間ない動きとぶつかりは生活や育児との取っ組み合いそのもの。二人の汗とあがっていく息づかいは、観客に確かなものとして伝播してゆく。

 

チチ/小松弘季

舞台にあらわれ、虹を描く手のひらと視線。その研ぎ澄まされた集中力で場を掌握し、チチが見ている世界、チチが描こうとしているものを表現し観客へチチが何たるものかを一瞬でわからせた。あの一瞬でチチは観客の”わが子”となり、観客を「ハウス」へと取り込む。とても見事だった。一番最初にチチの見た虹がとても綺麗だったことを直感的に理解できたからこそ、私たちは薬箱を手に取る勇気を持てたのだ。

ママ/天野莉世

立て板に水のようにママから紡がれることば。日常の脳内で繰り広げられる自己対話や納得して進むためのロジック、他者への小言など、私の感情のるつぼが板の上で舞っているかのよう。だれもが自分をママに見出していて、一緒に走って転げまわって、あふれ出てしまった感情が動かす指先と、涙を流しながら「お願いだから、泣かないで」と声を震わせる矛盾した台詞に共鳴した。私たちはママとともに”生きた”と思う。

 

 

これからもリフレインは続いていく。続けていかなければいけない。社会と、生活と、家族と、私と、”わたし”と取っ組み合って傷をつくったとしても、その傷を恥じる必要はない。傷を見せるのは勇気がいることだけど、きっと誰かが薬を塗ってくれる。私もいつか誰かに薬を塗ってあげられるだろうか。いつかのその日のために、ちぎって投げた欠片を大切に集めながら生きていきたい。

かながわ短編演劇アワード2022 〜公開審査会を見て〜

かながわ短編演劇アワード2022、2日目の演劇コンペ&公開審査会を観てきました。

グランプリのMWnoズ、観客賞のエリア51、おめでとうございます!!!

また、かまどキッチン・じゃぷナー観という初めましてのカンパニーの作品を観れたこと、エンニュイさんを知れたことを嬉しく思います。コロナ禍での開催に尽力してくださった皆様に感謝します。

 

…以下は現場で公開審査会をみて、いち観客として感じたことです。

結果についてではなく、結果に至るまでのプロセスについての話であるということを念頭に読んでいただけますと幸甚です。

 

 

採点基準のあいまいさ

演劇という主観や感性に頼る定性的なものを定量的に測って「いちばん」を決める作業は非常にむずかしく、審査員みなさん胃がねじ切れるような思いだったと存じます。

だからこそ、あらかじめコンクールのゴール、「いちばん」の定義を主催側は明確にしておくべきだったのではないでしょうか。岡田さんに判断基準を問われ、主催として「将来性ある団体を送り出したい」という意図が示されたのは後半戦に入ってから。その「将来性」というのも、各カンパニーの持つパッケージでののびしろを指すのか、それとも演劇のあたらしい形の可能性のことを指すのかが明示されず、審査員の中でも統一されることなく両極にふれていました。定義が明確でないが故に、迷ったりコメントの焦点をどこにあてるかがブレる。挙句の果てに、最終投票時にかまどキッチン2、MWnoズ2と票が割れた時点でエリア51に投票しようとしていた岡田さんに対し、揖屋さんが

「(時間がないので)決めていただけると助かります」

と促すのは非常に傲慢だと感じました。時間が有限なのはわかります。だからこそ効率的に、有意義な議論を1秒でも長くするために、主催は採点基準について事前にもっと練るべきだったと思います。

 

また、審査の中で加点方式と減点方式が混在していたのも気になりました。

特にかまどキッチンとエリア51に対しては減点方式が強く作用していて、期待の表れと言えば聞こえはいいですが、それならば全てに対し方式を統一すべきです。これも明確な採点基準がなかった故の事だと考えます。

 

「社会的な作品」とは

エリア51の作品「ハウス」はシングルマザーと障がいを持つ子に焦点をあてた作品でした。それゆえか「社会的な作品」という形容が多く見受けられました。でもそれを言うなら反戦や社会からの孤立を訴えるじゃぷナー観の「エン EN」だって、コロナ禍で生活と創作意欲と演劇に葛藤するかまどキッチンの「あ、たたかい(の)日々」だって社会的な作品のはずですが、その2団体へは一切言及がありませんでした。なぜエリア51にのみこの言葉が向けられたのでしょうか。

 

笠松さんがコメントの中で、

「社会的な訴えをしたいのであればもう演劇ではなく社会運動としてやったらどうか」

という旨の発言がありました。

なぜ、社会的なテーマを演劇でやってはいけないのでしょうか。共鳴するものを見つけて、創作意欲がわいて、それを作品に落とし込んで、発信して、観客へ提示する。それは社会的、とされるものではないテーマを作品にする過程と同じではないでしょうか。社会のなかで、生活のなかでみつけたものを自分というフィルターを通して、演劇というツールに落とし込む。なぜ社会的、…この「社会的」というカテゴリもハテナですが、このような題材について演劇を通すことを否定されてしまうのでしょう。基本的に私は「なるほど、あなたはそういう考えなのですね」と他者の意見を受け止めるようにはしているつもりなのですが、今回の、この演劇コンクールという場で、審査員という立場で、その発言は、言っちゃあならんでしょう。創作意欲の根本をへし折るこの発言については、はっきり「それは違う」と主張させていただきます。

 

また岩渕さんが後半で

「社会的課題がたくさんある中から、ピックアップしてしまう形になるとすると、どこまで自分たちの中で消化してくか?というの聞きたいんですけど、でも(討論会ではないので)聞けないんですけど、そこがまだ若い人たちだと思うので…」

エリア51に対し気になることとして発言されました。それに対し岡田さんが一般論で言いますけど、と前置いて

「様々な問題が自分の前に等しく等価に置かれてて、えーっとじゃあ今回はこれ、なんてピックアップして扱ってる作り手なんていないですよ」

とピシャリと返してくださったこと(&前述の笠松さんコメントのあとの「社会運動のほうでやれという意見は気にしなくていい」というコメントも)は救いになったと思います。岩渕さんは編集者という選ぶ/編纂する立場の方なので、作り手との視点の違いゆえにかの発言に至ったと思うのですが、参加団体との質疑応答の形をとっていない審査会で、あの流れは酷だと感じました。

 

芸術を評するのは難しい。

私も感想という笠を着てふだん好き勝手なことを書いていますが、何かの機会で評することがあったら、気を付けていかねばならないと強く思いました。

 

さいごに

繰り返しになりますが、芸術を採点するのはとても難しい。だから今回のような採点基準の議論は、悲しいかな「あるある」のひとつです。

 

以前、知人が出品した別の界隈のコンクールでも、同じような曖昧基準・スポンサーの意向により筋がのみ込めない審査プロセスとなってしまいました。

結果、知人は以降の創作意欲のベクトルが大きく変わってしまいました。あなたの作品はここが素晴らしくて、ここが良かったよと私なりに声かけをしましたが、いち観客である私はただただ無力で、創作が死んでいく過程を見ているしかできませんでした。

 

今回、この記事を書くか迷いました。

今回も、私は無力な観客です。

でも、書き残しておこうと思いました。

 

 

必ずカンパニーの名前を呼び「お疲れさまでした」と声をかけてからコメントに入る徳永さん。カンパニーと作品へのリスペクトを感じ、私も普段のふるまいを正そうと思いました。

「これで、絶対にやり続けなければいけなくなりましたね、がんばってください!」と、呪いの仕上げで発破をかけ、「経験談ですが、悔しい思いの方が100万円よりも価値があると思っている」と参加団体にリボンをかけたスズキさん。軽やかな論評が素敵でした。

 

あらためて!

グランプリのMWnoズ、観客賞のエリア51、おめでとうございます!

かまどキッチン、じゃぷナー観、エンニュイとの出会いを嬉しく思います。

どうかこれからも、創作の芽吹きが絶えませんように。

皆さんの作品をまた拝めますように。

本当に、楽しい2日間をありがとうございました!!

かながわ短編演劇アワード2022 〜1日目雑感〜

かながわ短編演劇アワード2022 演劇コンペ1日目を見てきました。

f:id:maromayubanana:20220326222933p:plain

 

1日目の感想をザクザク書いていきます。

 

※記載は上演順

※団体名「タイトル」

 

 

かまどキッチン「あ、たたかい(の)日々」

ミリな事象、自分内面をムクムクふくらませていく。

実際に7つのSNSアカウントを使い分けているという衝撃の掴み(掴みというか事実なんだけど)、それを板の上で肉を纏って展開させるという試み。属すコミュニティに合わせ、自分の中の倫理観や社会性や欲望を切り分けている、そしてたまにそれらの一つを最悪な気分で全消ししたり。そんな内なる葛藤というか、もやもやとした自己会話をさらけ出してくれる胆力がとても魅力的だと思った。オタクであること、演劇をすることにモニョモニョ自分どうしで言い合っていたけど、こんな言い方はあれだけど存在がとてもエンタメというか悩んでる様が本当に宇宙だし、ビッグバンに祈らずともとても優しい方とお見受けしたので、児玉さんには好きなこといっぱいやって見せ続けてほしい。

演出としてはモニタとスクリーンに情報を出していくのが飽きなくて楽しい。ただ情報量が多いので視線がちらばってしまい、瞬間的に情報の取捨選択をしなければいけない場面も。アカウントも7つあったと思うんだけど、メインとVtuberとエロアカウントが印象つよくてその他ももっと観たかったな。個人的にはスクリーンに流れた児玉さんのプロフィールをじっくり読みたいのでデータほしいです(←好きになってる)

 

 

エリア51「ハウス」

まず役者が圧巻。

小松さんの一発目の所作での集中力のすさまじさ。あれで場を掌握したのすごかった。天野さんのタフさ。ジェットコースターのような感情に加え、数々の奥様シリーズを演じ分け(一瞬で各奥様のひととなりがわかる)、手話、なによりチチとの対峙とバッサバッサとさばいていく姿、そこに無理がないのがすごい。2人の身体の絡まりが、育児と生活のとっくみあいそのもので、後半息が荒くなるのも良い演出となり、でもセリフも動きもブレなくてすごかった。すごかったって何回も言いたい。撒かれたチラシに足をとられやしないかと少し心配したけど、少しのスキマを的確に踏んで駆け抜けてって杞憂だった。すごかった。

黒子の劇中での転換もスムーズ。芝居が継続する中ぬるりと現れ場を作る職人芸かつ、じわっと芝居にも入ってくる。NHKのお給料もらうとこ好き。光の使い方がとてもうまく、空間に感情を充填して媒介してくれる感じが良かった。なんだろ、光のLCLみたいな。最後ママがピンポンしようと思えるきっかけをもうちょい深堀してほしかったけど、芝居でそれに説得力が出てたからいいか。脚本については書きたい事いっぱいあるので後日別記事にします。

 

 

MWnoズ「ROBIN」

「境界線はわからないけど、いつの間にかやらなくなったことって、あるよね」

あるよね。

人前で鼻くそほじるとか、這いまわる蟻を丁寧に1匹ずつ潰したりとか、理想の自分を妄想したりとか*1、雨の日に傘をささずに帰ったりとか。子ども→大人での変化もあるし、昨今のコロナ禍も相まって無遠慮に他人の身体に触れることもなくなった。そういう、あるよね~、って言いながらもすぐには思い出せない、記憶の中を拾いあげていくみたいな、夢の中での探索みたいな感覚を、ダンスを通してイメージを伝えてくれて面白かった。惜しかったのは皆さん声が細く、濡れヒヨコ・パタリロキャシャーン…あともうひと方の役名が聞き取れなかった。私は濡れヒヨコ推しです。

あと放課後の土手とか、チョ待てよとか、モノマネとか、こういう共通認識ってどうやって形成されるんだろうなと考えながら見てた。チョ待てよはもはやインターネットミームの一種だけど、放課後の土手を経験してる現代人ってどれくらいいるんだろ。私は経験してない側の人間だけど、「放課後の土手」ってワードですぐポカポカした感じになるんだからすごいよなあ。

 

 

じゃぷナー観 Japnakan 「EN エン」

エン、円(まるい=球)、縁。

「ことば」、にフォーカスし、多数の言語を滝のようにあびせることで、伝達の手段であるはずの「ことば」の意義と「わからない」を問いかける。ズールー語タイ語を波状発信することで、観客にも「わからない」を体験させていく面白い試み。

アフリカ出身のBonoloさんのズールー語のグルーヴ感、タイと日本のミックスであるShogoさんの境界線の曖昧さゆえの葛藤、言葉を交わしているはずなのに孤独である大和なでしこちゃん、三者のわかる・わからないをことばのキャッチボールの応酬でみせる。起承転結でいうところの”起”で”結”が見えちゃったことと、裸一貫ならぬ”ことば一貫”で挑んだがために視覚的に単調だったことがちょっとしんどかった。四番目の上演で観客の集中力も落ちちゃってるタイミングだったしね…Bonoloさんの夢の話からアフリカでの紛争(そう、日本に利害があるからこそウクライナ情勢をみんな気にするけど、紛争は世界中で起きている)とKAATを繋げるのは上手いと思ったし、馴染みのない言語でも案外わかるもんだなとか、あっココは全然わかんないやとか、試みはとても面白かったので、別のアプローチでも見てみたいです。あと大和撫子ちゃんの背景が察することはできたけど察するしかできなかったので、なんでそんな最初っからキレちらかしとるん…とちょっとぴえんでした。撫子ちゃんがちゃんと笑える日がきますように。

 

 

エンニュイ「きく」

今回コロナ感染により残念ながら辞退とのこと。

楽しそうに稽古をしている姿をTwitterで拝見していたのでとても悔しいかとは思われますが、まずは感染された方がはやく回復されますように、そしてまたどこかで「きく」を見れるのを楽しみにしています。

 

 

おまけ:KAAT 大スタジオ

KAATのアトリウム大好き~!天井高くて解放感あって来るもの拒まずな感じ。併設カフェは以前はランチバイキングやってて好きだったんだけど、さすがにバイキングはなくなってたな。

椅子が硬くてほぼ直角で腰にはあんまり優しくなかったな…ハモ騒動やmuro式.で来た時は感じなかったんだけど、ホールとスタジオでは椅子の仕様もちがうのかな。

今回は席数半減=ひとつ飛ばしだったのでゆったり快適に見れた。傾斜もかなりあるので、フルキャパでもストレスなく見れると思う。

スタッフさんの案内もホスピタリティまごころたっぷりでLOVE。お手洗いも数あってきれい。最高。

そういやNHK横浜放送局と同じ建物なので、今日の公演でもNHKネタ入ってたな。アトリウムに大河とか朝ドラのシーンがドーン!と流れるビジョンもあるので、好きな人は楽しいかも。

 

明日は2日目、公開審査会での講評もたのしみです!!!

配信あるよ!!!3/27 12:00から!!

www.tvk-kaihouku.jp

*1:ごめん私は今でもやるけど

いつか、糸を結ぶ日まで。―舞台「粛々と運針」

stage.parco.jp

2022/2/13 PARCO劇場にて。

 

 

私として、母として

人生は選択の連続で、その選択で分岐した世界に進んでしまったら別の世界線に行くことは叶わない。いつだって悩んで、流れに身をゆだねるしかなかったり、決断したりして人生を進めていく。人生という時計の針は止まらない。でも人の心はどうだろうか。

 

長女・次女を妊娠したとき、真っ先に考えたことは「上司になんて報告しようかな」、だった。

生理がずいぶん遅れて3人目ができたかもしれない、となった時、「今は産めない」と思ってしまった。

 

私にとって出産は「女に生まれたからにはやってみたいこと」というToDoリストのひとつであり、検査にて卵子の在庫が少なく子を産むなら早く産まなければならない、というのがもともとわかっていたので、子どもを設けるなら早く決断しなければいけない…という理由から同期たちよりずいぶん早く産休・育休を取得することとなった。いくら制度が充実している会社であるとはいえ、第一志望の業界に入れて数年、期待をかけて育ててもらい、しかしまだまだ半人前の身分で「お休みをください」、と言うのはかなり勇気が必要だった。

そして3人目疑惑*1は育休明け初の大きい仕事がなんとか軌道にのりはじめたタイミング。同期たちはずいぶん先に進んでいる。よし私も!この会社での志もやりたい事もある!遅れを取り戻せるようにがんばるぞ、と新規部署立ち上げメンバーになるも、本当に何もしない・してくれない上司2人の分まで時短勤務の身で仕事をこなし、やっと光が見えてきたタイミングだった。

サラリーマンなど代わりはいくらでもいる。私がこの仕事を抜けたところで誰かがうまくやり遂げてくれるだろう。

でも私は?私がやってきたことは?私がやろうとしたことは?私が私にわたすための勲章は?

 

命は尊い

それは揺るぎない。

「目と心。奪ってみたいわ。」

奪ってみたいも何も、産声を耳にした瞬間から全てを奪われてしまうのだ。君と私の本能の共鳴。人として最初で最後の「わかり合える」瞬間なのかもしれない。

 

命は尊い。それは揺るぎない。

子どもたちを産んだことに後悔はない。まったくない。

ただ、女として生まれていなければ、とか、仕事一本でやってきていたら、とか、ヒトはなぜ卵でうむ方向に進化しなかったのか、とか、考えないわけでもない。

 

命という眩しい光を浴びる私の後ろには、長い長い影が伸びる。

やがて地面に焼き付いた私の影はそこにとりのこされ、先に進んだ私自身も、影がちぎれた足のうらがチクチクと痛む。

 

ヒトがヒトを産むにはたくさんのリミットがある。

背後でチクタクと刻む秒針が判断を迫り、余計に息が苦しくなる。

どの道に進んでも、必ず何かを手放すことに変わりはない。どちらも正解で、どちらも悪くない。はず。なのに。あのとき置いてきた影の行く末が、どうしても気になってしまう。彼女は別の世界線を無事に歩めただろうか。今元気にしているだろうか。

 

「キャラ物が入り込むのが嫌なのも、お母さんをやれてしまうことが不安なのも、ぜんぶ本当のことなのにどうして信じてくれないの」

「どうしてその選択を後悔するって決めつけるの!」

「苦しんどるやろ!」

沙都子はおそらく自分の心の内を見せるのが嫌で、見せる・見せないの線引きがしっかりしている。その線を飛び越えることはきっと彼女にとって非常に苦しいものだ。應介がそれをちゃんと理解していて、齟齬に気付けて、落としどころがまだ見つからずともちゃんとわかって、会話をしようとしてくれる夫でよかった。應介といっしょなら、沙都子はどんな選択をしても置いてきた影とうまく付き合っていけると思う。私も当時、自分ひとりでジリジリ悩まずに話を聞いてもらう勇気を持てばよかった。命に対して後ろ向きな発言をしたら落胆されるだろう、軽蔑されるだろうという恐怖があった。けれど、ともに人生を果たす相手くらいには心の内を明かしてしまった方がきっと生きやすいし、相手もまだまだ見せていないカードを見せてくれるかもしれない。それが同じ道を選択した者としての「人生の果たし方」なのだと手を繋ぐ二人を見て感じた。

 

 

子として、他人として、遺されるものとして

「自分が自分であることを実感するには、他者に欲せられることが必要である」と哲学者ラカンは言う。

沙都子が”なんでもこなせてしまう”のも、應介が父親という役割から何者かにならんとするのも、結さんが振り回されてもなお餃子を作ったり、一の世話をやいたり、孫を切望して祖母という役割を欲すのもこれが根源だ。

 

一の「41歳実家暮らしフリーター」という肩書が若干ややこしくしてしまっているが、子が母に持つ「生きていてほしい」「自分の母であってほしい」という感情そのものは至極真っ当なものだ。紘は母の尊厳死の決断を尊重する言動を続けるけれど、きっとそれは奔放な父と兄に苦労させられた母と、そして自分のそれまでの人生を肯定したい気持ちの表れでもある。

 

田熊家が「自分の人生の果たし方」の話ならば、築野家は「残されたものの整理のつけ方」の話だ。母は一人の人間であった。その役割が死をもって剝がされるとき、自分は子ではなくなるのか、母、であった人は自分にとって何者になるのか、自分は何者になるのか。

 

「俺も…俺のお母さんなんだよ」

この最後のセリフでやっと紘の子としての人格が見えて、私は少しうれしかった。一は紘や田熊家を通して世界を少しだけ広げ、紘は少し素直になったところで、結が立ち上がる。

 

「このふたりの母親だったこと、確かに幸せだった」

そう告げて一と紡の頭を撫で、糸に手を振り下手へ駆け抜けていく結さんを見て、母として生きた自分と、金沢さんと出会い尊厳死を選んだ自分…ある意味かつて置いてきた自分の影とちゃんと手を繋げたんだな、と唐突に思った。

糸の無垢なピンクのおべべと対称に、様々な生地のパッチワークからなる服に身を包んでいた結さん。数々の選択と、かつて別れた影を縫い合わせる作業。最後は無垢な白を纏って去っていく。

法被や筏を渡したら責任を果たした、と言わんばかりにしらーんぷり。

尊厳死を選択して余生をすごすことに対して、後ろめたさももちろんあったのだろう。残される息子たち、とりわけ一を放り出す形になることを、花筏の行く末に重ねため息交じりに語る。それでも彼女は針を動かし続けた。

 

 

…ふと思ったのだけれど、糸ちゃんは自身の産着を、結さんは自身の白装束を縫っていたんじゃないだろうか。飛び込んできた命に悩む両親と、母の死…二重の意味での死に整理をつけていく息子たちが一歩、いややっと半歩踏み出そうとしたところで2人の衣装が仕上がって、手をふりあって別れたのだとしたら。糸を結んでこの2人が進む先は正反対だけど、ともに愛おしい葛藤を共有した運針の時間はとても穏やかで美しい。針を進めていくことで、自分の命のハイライトを飾る。

自分の命を粛々と愛すること。

 

結局のところ、これが一番大事なのかもしれない。

 

*1:結局はストレスで生理が遅れに遅れただけだったのだけれど

とけない、とかさない、とけない。

厚さ13cm。

サンシャイン水族館のメイン水槽:サンシャインラグーンが湛える240tもの水量を支えるアクリルガラスの厚み。目の前にたゆたう、触れることができそうな水生生物たち。しかし彼方と此方ははっきりと、13cmの隔たりがある。彼らのためにも、私のためにも。

 

とけない

人の中には感情がある。感情、の2文字ではすまない、矛盾もふくめてがんじからめの想い。堰を切って流れ出したらとまらない。流れ出した水は濁流になり大事なひとをのみ込んで、どろどろの泥濘しかのこらない。そんなことになりたくないから人は想いを水槽のなかに閉じ込める。傷つけないように、傷つかないように。

 

隣の芝は青く見える。となりの水槽も煌めいて見える。

ただ芝と違って、となりの水槽に飛び込むことはできない。せいぜいできたとして水槽同士をくっつけるくらいだ。でもそうすると、隔たりの厚さは倍になる。とけないその厚みが、とけない誤解を生む。

アクリルガラスに映る自分の顔。捕食のすがたは悪魔の形相。でもひとは私を天使だという。となりの水槽はまぶしい。その光を捕食する私は、私は。

淵でじっと時の流れに耐える。でも時は流れるものではなく堆積するものだ、だから美しいのだと突如飛び込んできたタイ焼きは言い、「また明日ね」、と言い残し泳ぎ去っていった。なんども流れゆく「また明日ね」を聴きながら、やっぱり時は流れていくんじゃないか、ならばこの流れにのせて大海原へあの子をゆだねなければ。そしてこの淵で、私はひとり。

寄り添っているつもりだった。ともにたゆたい、いずれは同じ星屑になると思っていた。しかし足りないぬくもりを求めて彼女に触手をからめていただけだった。墨色の残像の感触。おいていかないで、大きくなって私も泳がなきゃ、大きくなるために、食べなくちゃ。

 

それぞれのとけない誤解。でも絡まってとけない視線。会うたびに説けないことがふえていく。

 

ユカが見た夢。

大水槽を前に「大人スゲー!」とはしゃぐユノとアイ、を遠くから見ているユカ。ユカには2人がどんどん先に進んでいるように、大人になっているように見えていた。実際のところ2人は「大人なりたくねー!」と叫んでいたのだけれど。

「いっしょに来たかった」

というセリフが「いっしょに生きたかった」にも聞こえて、星屑のような群れの中で脈打つことに憧れつつも、選択肢が多いが故に動けなくなってしまったユカの息苦しさがひたひたと伝わってくるラストシーンだった。

溶けあえなくても、鮮やかなマーブル描きながら生きていけばいいんだよ。と言えるようになるためには、きっと彼女たちにはもう少し時間が必要。夢ではなく、いつか大水槽を3人そろって眺められる日が来ますように。

 

そのほか諸感

光への衝動を抱くアイをとても魅力的に、くっきりと演じていた佐藤日向さんがとてもよかった。「人付き合いは苦手だけど、人間は好き」というアイのキャラクターをモノローグ・クリオネ・ユカユノとの距離の詰め方で丁寧にメリハリよく演じていて、佐藤さんのこともアイちゃんのこともとても好きになりました。一方、アイが出てくるまでのユカ・ユノの関係性が若干のみ込みづらく*1、序盤はセリフを取りこぼさないように耳に集中しなければいけなかった。アイのキャラクター像が圧倒的光属性(陰キャコミュ症だし、行動は裏目に出るし、大学で挫折して中退するし、自分の過去の行いはやはり悪魔だったと絶望するけど、生きていくことに関してはタフで根アカなので)なのに対し、ユカユノは無限・有限の絶望担当としてどこか自分を殺さないといけない&互いこじらせた愛情を持っているので、材料を序盤に全て出すわけにはいかない部分もあったのかな。現場だとその空気感も掴めたのかもしれない。

 

私は劇場でお芝居を観るという経験しかしたことがなかったため、本公演のように劇場以外の場所で行われるお芝居は面白いなと感じた。芝居のことなど気にせず存ぜぬで漂うクラゲの存在や、劇場とは異なる響きをするセリフや演奏は実際に体感してみたかった。もともと演劇は街の広場で行われていたものだし、今後もこのような劇場ではないところで、日常と地続きの場でのお芝居が増えてほしいし、触れてみたい。*2

 

今回は特典付きの配信チケットを買ったので、メイキングもたっぷり見れて嬉しかったし、このあとパンフとブロマイドが届くのも楽しみです!首を長くしてまってるよ~~

*1:めっちゃ仲良し!にも見えないし、腐れ縁というには材料が足りない

*2:もちろん劇場も大好きなのでいっぱい行きたいし配信劇ももっと見たい

深淵を渡る ―加藤シゲアキの連続する螺旋

加藤シゲアキは、ソロ4作でどう生きたか。

曲とライブでの演出で、彼の人生を紐解いてみたい。

 

あやめ ―無垢な救世主の誕生

決して空想 夢想の彼方

曲中に4回登場するこのフレーズは、出てくる度にその意味合いが変わってゆく。

 

決して(=きっと)空想 夢想の彼方(なのだろう、あなたとの愛の人生は。

でも)今だけは そばにいて 離さないで

主人公である”僕”は”あなた”を愛している、でもその愛が世界に認められるものではないと半ば諦め、せめて今、あなたがそばに居る今だけはと刹那的な感情で詞を綴っている。

街では灯りが揺れている、僕とあなた以外の人々の生活が、コミュニティが、淡々と続いている。目覚めの鐘の音…何かが変わろうとしているのに、まだ誰もそれに気づいていない様子だ。でも僕には聞こえる。あなたの歌う声はこの街では雨音に流されてしまう、でも鐘の音とともに”僕”の中に無垢に染み入り巡っていく。

 

決して空想 夢想の彼方

今だけはキスしてよ 世界は光の地図を求める

だから僕は生きていく

はじめの「決して空想 夢想の彼方」とニュアンスはほぼ同じだ。刹那的で、”僕”と”あなた”のぬくもりにフォーカスされている。しかし”僕”の目線は”あなた”から少し外れる。街の雑踏から離れ鐘の音に導かれるように、光の地図…”僕”と”あなた”の理想郷を探すことに己の生の意義を見出し始める。

ここでつづられる”世界”とは、「僕とあなた」。このぬくもりを確かめられる、街の隅の小さなこの世界。それを守るため、光の地図は無いかと”あなた”に抱かれながら思う。

 

紙で切れた指先の痛みのように、誰しもが経験していても、他人には完全に伝わり切らない不自由な疼き。”僕とあなた”/その他の人は100%理解し合えないことを胸に刻む。でも人の機微は簡単に線引きもできない。いま自分が持つこの感情だって、見ている景色だって、自分ですらはっきりと定義することは不可能だ。”わからない”、がちらばる世界。生きていくには荒野のように厳しすぎる。それでも”僕”は”あなた”と歩いていきたい。

ここが荒野であるならば、せめて”僕”と”あなた”の歩く道は自分たちの手で彩っていこう。与えられるラベルはいらない。与えられる定義もいらない。今この瞬間の色を塗りこめ、踏みしめ飛ぶ。”あなた”の手のぬくもりが僕の色だから。

 

決して空想 夢想の彼方(などではない。

これから進み続けるから)今だけはキスしてよ 

世界は光の地図を求める そして僕は生きていく

”僕”は夢想だろうと思っていた”あなたとの愛”の道を創る覚悟を決める。「そばにいて、離さないで」と受動的だった”僕”が、”あなた”の一歩前を進みだし虹を駆けあがる。この「世界」は「僕(+あなた)」、幼気に歌う”あなた”の手を”僕が”引く。

僕が”あなたを必要としているから。

僕が”あなたを愛しているから。

だから”あなた”も踏み出してほしい、きっとこの先は美しくなるはずだから。

虹の頂点で”あなた”に、世界にそう訴えかける。

 

消して嘘 感傷よ 放て

どこまでも

啓示だろうか。

なぜかこの言葉を前から知っていたような気がする。

 

決して(どんなことがあっても)空想 夢想のあなた(などにはしない

今だけはキスしてよ

世界は心の奥底にある だから僕は生きていく

先を歩む者としての覚悟。荒野には無かった光の地図、ならば己が地図となろう。

気付けば虹を駆けあがった”僕”の周りには様々な者がいた。淡々と生活を重ねていたように見えた街の人々も、複雑なグラデーションの中でもがいている。

 

虹を歩いてく

七色の光を手に、”僕”は世界の蜘蛛の糸となる。

生まれたばかりの無垢で美しい蜘蛛の糸を求め伸びる数多の手。その全てを救わん、と

”僕”は呼吸を始める。

 

 

氷温 ―理想の失敗、自己と他の分離

あやめの”僕”は、”僕”と”あなた”を同一視している。

”僕”が愛しているから、”あなた”も僕を愛しているから、”愛し合っている”から、「僕=あなた」なのだと。”僕”と同じ思いで虹を歩んでいるはずだと。

しかし人は人である以上、完全に同じ存在にはなりえない。

氷温は、それに気づくのが少し遅れてしまった”僕”の物語。

 

鏡ごしの君 知らない顔をしてる

多数の照明で縁取られた”君”…女優ライト、のような化粧鏡に映る”君”は”僕”の知らない表情。もう見つめ合うこともない、視線は合わない。鏡ごしでしか君を見ることができない。

昨日見た夢を 話しかけてやめにした

どんなに魅力的な夢を見ても、その面白さは当人にしかわからない。言語化した瞬間に味気なくなる「昨日見た夢」。紙で切れた指先の痛みは伝わらないものだと思い出し、”僕”と”君”が他人であることを痛感し口をつぐむ。”僕”と”君”の間に線が引かれていることを自覚する。

終わりを知りつつも諦め切れていなかった”僕”。夢の話をして君の気をひこうとしていた。ライムの香りでそれに気づき落ち込む。溶けてゆく氷がとめられないように、もう結末へのカウントダウンは始まっている。

 

Don't Believe in me

君を愛して 嘘重ねて 終わりなら

”君”を愛することは、嘘をつくこと。”君”を引き留めたくて偽り続けた。でも本当の”僕”を見てほしい、本当の”僕”を愛してほしい。”僕”の嘘など信じないでほしい。でもそれでは”君”の手はつなぎとめられないジレンマ。「消して嘘」と立ち上がったはずなのに、”君”と歩くには嘘を重ねていくしかなかった。”僕”の理想はどこにいってしまったのか。

Don't believe in me

あのとき”僕”を希望だと信じて縋ってきた者たちは、今の情けない”僕”の姿をどう見るのだろう。

 

君の熱の鈍さが へばりついて落ちないままで

もしも二度と会えないのなら 月明りで抱きしめて

君の熱の鈍さ…肌を重ねてはっきりと分かる気持ちの差がぬるく刺さって抜けない。嘘ではない、僕の最後の願いも君には届かない。

 

ドアの音 せめて聴かせて

僕のもとまで届かせてくれよ

きっと、目が覚めたらもう”君”はいなかったのだろう。”君”が去っていくその背中すら”僕”は見ることを許されなかった。もしかしたら、”僕”が昨日見た夢の話をしようとした”君”も、”僕”の記憶の中の”君”だったのかもしれない。

 

”君”に手渡されたハイヒール。きっとあれは”君”が告げた最後の言葉。”僕”はその言葉の本意が未だわからないでいる。

手にしたハイヒールを見つめ、考える。

わからない。

”君”をわかろうとしてハイヒールを履いてみる。

わからない。

最後の手がかりが欲しくて、”僕”は”君”が見ていた鏡を覗き込む。

氷温

そこに映るのは、”僕”の姿だけ。

 

 

世界 ―自己との対話、そして、再生

この手に情けない生き様を握りしめ

誰にも託せぬ夢ばかり

手に入れたかった色彩はどこへ

いつしかぐらつくレゾンデートル

あやめ、氷温のダイジェストかのような歌詞。

手に入れたかった色彩…求めていた光の地図も、かつて希望であろうとした自分自身の存在意義も見失ってしまっている。

振り返るには浅い人生を 

愛おしいながらも嘆く毎日

しかしその過去が全てマイナスだともとらえていない。氷温での別れも、その後にあったであろうあれこれもフラットに受け止めている。冷静に自分を肯定する。過剰な悲観もしていない。

 

ざらし空の向こうに一話のルリビタキ

一体あれはなんだったのか

半径数メートルの距離も保てないまま 強くあれと誓い立てる夜

空の向こうのルリビタキと、ごく近くの人間関係すらままならない自分。理想と現実の距離の遠さを認めながらも己を鼓舞する。理想郷を探そうとして、最愛の人と道を違え、身近な人との距離感にも手間取る現実。

どこかで生きてる誰かに悩んで

どこかで生きてる誰かに頼って

どこかで生きてる俺も誰かで どうすりゃいいの

世界の蜘蛛の糸になるどころか他者に悩んで頼って、自分も特別な存在なんかではなくて、他者を救うなんてこともできないのではないか。

 

ただ、理想が消えたかといえばそうではない。己の熱さは健在だし、誰にも託せぬ夢として心の底でじわじわと燃え続けている。

求めていたのは愛じゃなかったか

求めていたのは夢じゃなかったか

求めていたのは魂じゃなかったか

かつて自分が歩きだしたきっかけは何だったか。光の地図はどこにあったか。

世界はここにある

貴様が世界だ

 

 

Narrative ―シン化と真理

途切れそうな心電図、意識がもうろうとする男。

”世界”の底へと潜り、綴り続けた者。原稿用紙のコートに袖を通し、自ら物語をまとう。

白雪の上 羽ばたく残像

ヤドリギの夢 どこまでも遠く

ヤドリギとは、樹木の枝に丸く球のように寄生する常緑の半寄生植物。寄生した木が落葉しても、ヤドリギは青々と茂る。

しかしヤドリギは、その実を鳥に運んでもらわなければ遠くへは行けない。冬も飛べるルリビタキと、枝に絡まり動けない自分。未だ遠くにある理想と、わずかな時間しか残されていない自分。世界は心の底にあるはずなのに手が届かない焦りから、彼は神へと語りかけながら世界の要素を拾い集めていく。

Narrative—

がくり、と落ちる頭に反し滑らかに動く左手。

委ねた瞬間に生まれたSTORY 不意に閃き突然変異に恋し

ペンを握る手を動かすのは己の意地か、それとも神か。

「あなたの風になりたい」

彼を救おうとする神の声がささやく。デウス・エクス・マキナ…神の

手で万事解決されるようじゃ面白くない、でも自分の感覚ももうどこにあるのか…まあいい、気のすむまで叫んでやろうじゃないか。

 

”あなた”と過ごした日々、”君”との別れ、己を見つめ直した日々、すべてが意味を持ち手元を照らす。傷ついても左手は動き続ける。

 

白雪の上、ルリビタキを目で追いながら、確実に”何か”を書き残そうとしている。残された時間と命を投げうって叫ぶ。

もてあます衝動 語り尽くせる者

その目で見たものを ひたすらに解き放て

未完成ながらも重ねた日々を綴る。狭間に居る者たちが彼にすがる。救われんとするのか、彼の衝動にひきよせられているのか。その者らをも取り込み、物語を吹き込み、ページのひとひらとして展開していく。その姿は人を超えたなにかになりつつある…人々に命を与える神のように。

”シン化”した彼は振り向いた先で、おそらく「真理」を見た。

そして穴におちていく。

神に近づき過ぎて堕とされたか?

否、きっと神は真理を知る者として、彼に世界を託したのだ。ラグナロク後の世に生き返り人々を導いた光、バルドルのように。

 

穴の底で、彼は目覚めの鐘の音を聴く。傍らの幼気なぬくもりと共に。

 

 

螺旋

STORYでNarrativeを見たとき、この穴の底はあやめにつながっていて、彼は円環のなかに居るのだと思っていた。でも自分の中で彼の後追いをしていくうちに、彼は円環の中にとらわれているのではなく螺旋を上り続けているのではないか、と考えるようになった。

確かにNarrativeで何かを見た男は穴へ落ち、あやめの世界に戻る。でもそれは100から0に落ちるのではなく、新たな真理に出会ったから落ちたのではないか?リスタートではなく、純粋なプラス1の世界、のスタート。

人の価値観は日々変化する。新たな価値観も生まれる。それに名前がつくまで、知るまでの時間はとても苦しい。それに気づいて自ら立ち上がる事ができるか。わかり合えなかったときに、わかろうとしたか。己の立ち位置を見つめ直すことができるか。自分を信じることができるか。

 

加藤シゲアキのソロ4作は、価値観のアップデートのさまを描いたものではないだろうか。

 

トライ&エラーを繰り返し、そのたびに立ち上がり走り転び、何かを掴んでまた試す。他者と生きていくにあたりこの作業は1度では終わらない。その螺旋は果てしなく先も見通せないけれど、自分も他人もより良く生きる上では絶対にあきらめられない道だ。

倒れても、また一段上へ。私と、あなたとで生きる世界。

その世界を諦めない背中を、私はこれからも追い続けていたい。