マカロニ。

おたく魂をぐつぐつ煮込んで

傲慢に血を吐く 舞台「カモメ」

笑みとともに円陣、掛け声。

「お願いします」と舞台に一礼し歩を進める俳優たち。

”神保”が扉を閉める。

『劇場』が切り取られる。

 

www.area51map.net *1

 

 

問い

神保「演劇を続けるべきでしょうか」

”神保”が問う。

神保「劇場は自由な場所ですね。何をしたっていい。じゃあ何をするか。なぜ、するか。」

神保「理由なんてなくていいと思うんですよね、本当は、なにするにしても。でもまあ色々。もろもろで必要になってくるじゃないですか。」

”神保”はなぜこの戯曲を書いたのか。なぜ続けるべきかと問うたのか。

 

「かもめ」はいつも、大事なことは舞台裏で起きる。

”神保”は舞台裏で、なにを抱えていたのだろうか。

 

”神保”が”喜劇”としたかったものとは

顔合わせの席以来、”神保”はカンパニーの面々とは離れている。

神保「飲み会どころじゃないんだよ、書き終わってないから―――」

おそらくここまでが、彼がありのままに、正直に描写したシーンだ。

 

俯瞰して見ればみんなの顔が良く見える、面白くなる、喜劇が書ける。そう言って”神保”は神保を稽古場の外に出す。

少女「書き換えるの?」

神保「いや、ほんの少しだけだよ。~そこは稽古場、演出家のいない、稽古場。」

ほんの少し、神保は台本を書き換える。

 

以降、宗ちゃんは稽古を一手に引き受けることになるが、個性派ぞろいのカンパニーは一筋縄ではいかない。ひねり出した演出も良かったのか悪かったのか判断がつかない。アンヨに飲み会後の外泊がばれた、心が離れていくのが手に取るようにわかる。フラッシュバックする母の面影。わからなくなる自分の本音、見えない他人の本音。どれが仮面か本音か。俺の見ている君はどの仮面?台本問題で瓦解していくカンパニー、劇団員だからと覆いかぶさる責任。ボタンの掛け違いが重なって腕が上がらなくなるシャツのように、宗ちゃんは「自由に跳びたい」気持ちに相反し混沌に吞み込まれていく。失踪するアンヨ、追いかけられない自分、それを責める言葉。静寂の中、チキチキと響く刃の音。

 

少女は、何度この刃の音を聞いたのだろうか。

”家”までは物語とある程度距離をとって手を叩いていた。

”喪”では「私にどうしてほしいんですか」とユノに問うも「何もしなくていいよ」とけんもほろろに突き放され葬儀で膝を抱く。

”女ME"ではノゾミに干渉するも、自分を救うために、自分の忍耐の理由のためにしかノゾミはシーンを渡らなかった。焼け落ちるカドタをよそにノゾミはミシマの胸に飛び込む。

あんまりだ、なんなんだ、125年も何を見せてくれるんだ、わたしは喜びの子ではないのか。

「飛んでる場合か。」

滑空しながら考えた、カモメである”少女にとっての喜劇”へのToDoを。そして自ら羽根をむしり、その両の脚で舞台「カモメ」に降り立つ。新しい役とともに。

 

しかし少女の尽力むなしく、仮面をつけた者たちはすれ違い、崩壊の速度は加速する。

すれ違いながら生きていく、百年経とうが変わらない人間の愚かさ、それが喜劇だとチェーホフは言い放つ。

でも苦しみが変わらないなんておかしい、作者にしかできないことがあるでしょ!

そう叫ぶ少女に告げられる真実。

 

神保「でも、結末は変えられないんだよ。」「これは俺の記憶からできた物語だから。」

 

宗ちゃんは舞台裏という現実にもういない。彼がこの世を去る、それはもう変えようのない結末。その”悲劇”を”喜劇”にするために、”神保”はこの戯曲を書いていた。

 

ずっと気持ち悪かった。

宗ちゃん「俺はもうずっとこの舞台にかけてた。ずっと準備してたから、あいつと一緒に。俳優が翼なら作品はエンジンだから。どっちも伴って初めて、遠くまで飛べる

宗ちゃんがここまで言う”あいつ”がなぜここに居ないのか。なぜ全ての責任が宗ちゃんに負いかぶさっていったのか。

稽古場で実際に何があったのかはわからない、むしろ何もなかった、何もしなかったからのかもしれないが、宗ちゃんの死という結末は”神保”に理由があった。エンジンを失った翼は飛び立つ前に折れた。少なくとも”神保”はそう考えた。だからほんの少し書き換えて、この戯曲で”神保”を稽古場から出し俯瞰で宗ちゃんを見ようとした。宗ちゃんに何があったのか、宗ちゃんは何を考えていたのか。宗ちゃんの着けていた仮面は何か。俺が見ていた君は。

それが解ればこの”悲劇”を”喜劇”にできるかもしれない。彼へのレクイエムとして。

 

少女「この後、何が起こるの?」

震える声で少女が問う。

死を止めるという目的を叶えるために、自らの意思で覚醒した少女はこの作品に降り立ったが、彼女は数多の「かもめ」の中から降り立つ作品を誤った。この舞台「カモメ」において、死は避けられない結末。

 

この後、本番初日にアンヨは帰ってくる。嵐の中舞い戻ったニーナのように。

少女「え?帰ってくるの?なんで?」

神保「それが分からないんだよ。‥‥本人のことばが必要だ。想像だけじゃなく。」

少女「これ、私の役―――」

 

神保「そこだけ書き換えてみた。‥‥どうですか。」

この一言は、愛だと思った。

 

絶望の渦中の者から、絶望を飛び続けてきた者への引導。125年飛び続けたチェーホフの子であるカモメ=少女が自身の戯曲に飛び込んできて、初めて”劇作家:神保”が少女へ敬意を表し渡すことができたセリフ。死が避けられないならばせめてクライマックスの真相をと、少女へアンヨのインタビューを託す。

 

アンヨ「多分彼らは、人前に立つ人にも日常があるということを想像できなかったんだと思います――昔の私みたいに。でも今の私は、彼らには仮面の一番外側の部分しか見えてないんだってことが分かるんです。傷つくには傷つきますけど、仮面の下の自分は傷つけられないんです。」 

アンヨ「自分の深さを知ったんです。だから私は舞台に立つことが、少しだけ、怖くなくなったんです。」

アンヨ「郵便受けに紛れてた――待ってくれてた誰かの、かもめです。」

『一緒に飛ぼう』

神保「そこは浅草九劇、2021年、12月。」

変わらない結末へ、進む。

 

”喜劇”とは、”悲劇ではないこと”。

絶望に絡めとられた宗ちゃんの死は、俯瞰で見ると美しい。自分の仮面・表層の自分を本音と誤認しギャップに苦しんだ彼は、アンヨのように深さ…自分自身のセーフハウスを持つことができなかった。深さも知らず、母に還ることもできず、トレープレフ・カドタに縋るように同化してゆくその様は美しき斑模様。宗ちゃんを死に至らしめたすれ違いや仮面でさえも、客席から見れば美しさを構成する要素となる。

しかしその美しさは他者や観客の、俯瞰からの想像がフィルターをかけた美しさだ。宗ちゃんの仮面の裏はもう分からない、想像するしかない。それでも背筋の凍るあの椅子の倒れる音を美しいと思えたなら、それは”喜劇”だ。

なんと傲慢であろうか。

この戯曲はレクイエムでもあり、”神保”にとって「もろもろで必要になってくる」もの。

神保「チェーホフは、『かもめ』という悲劇的な物語をあえて喜劇と呼ばせた。観客が、客席から俯瞰して見れば、それは喜劇になる。」

少女「どんなに絶望的な舞台でも?」「舞台上の人がどれだけ苦しんでも?」「そんなのおかしいよ」

神保「でもそうして、人は生きていけるんだよ。」

客席から俯瞰して見て、美しさを見出して、自分の中で”喜劇”と定義する。そうして人は折り合いをつけながら生きていく。

なんて傲慢な。

でもそうして、人は生きていくのだ。

 

少女は空を飛びながらも、その視点は俯瞰ではなかった。だからずっとこれを”喜劇”だと思うことができなかった。皮肉にも羽根をもいで地上に降り立ってはじめて、少女は”俯瞰”を理解する。

少女「チェーホフ、生んでくれてありがとう。私、これから生きるよ。」

もう飛べないカモメ。自らの手で幕を降ろす。

鳴りやまない時計。

客席の私はまだ目覚めることができない。

私はまだ物語のなかに居る。私の幕は、まだ降りない。

 

俯瞰=客席から”私”が見たもの

多層構造

①:「かもめ」とチェーホフ

②:実際の神保の記憶

③:②を俯瞰し”神保”が書き上げた戯曲

④:③の中で演じられる予定の劇中劇

⑤:③の登場人物たち

⑥:過去作”家/喪/女ME”

⑦:⑥を経由し③に降り立った少女と③を書いている神保

⑧:③+④+⑦を見ている観客

という多層構造で形成されている。この多くの要素と次元を巧みに組み合わせ、静かに第四の壁を破り、さらには精神世界をもさらけ出していくことで、「かもめ」および「KAMOME」ミリしら勢にはどこからどこまでが(舞台上における)現実なのかという心地よい倒錯を、「かもめ」および「KAMOME」を旅してきた者にはパイ生地のように脆くメタな多次元構造を踏み抜く危うさと快感を覚える。注意深く舞台を観察すれば、滲みはあるが層ごとにしっかり境界線は引かれている。

 

ペルソナ

仮面を見誤る宗ちゃん、憧れと実力のジレンマ*2に陥り心無い言葉にも晒されるアンヨ、べったりと笑顔を張り付けボールを拾い平等を図ろうとするいくみん、強気に稽古場で意見をだしつつ甘え方もうまいワンコ、刹那的に損得をジャッジし、少々人たらしが過ぎるゆうくん、年の功と包容力でカンパニーにも観客にも安心を与えてくれるおじい*3、わざわざ隠していたチョコレート*4を取りに来て良い雰囲気に水を差し、果てはハイパー無双タイムで大暴れするガンちゃん(スイカは割らない)、自分が習ったこと・自分のやりかたに固執*5しつつ頼る相手を常に見定めている夫人、「私が一番冷静でした」と言いながらも抽象的にふわふわと切り抜けるおっちゃん、この舞台にかけてるという割に主体性がなく、ワンコの建設的な意見を「マイナス発言多すぎ」*6*7と言い放つシュウペイ、一癖も二癖もあるキャストたちが己と互いの仮面の下を探り合う。ペルソナがテーマでもあるが、注で言及しているアンコンシャスバイアスの観点から各人を見るのも非常に興味深い。ペルソナもアンコンシャスバイアスも、情報と感情があふれてもつれる社会を生きていくための防衛本能だ。ただそれを自覚していないと、このカンパニーのように心理的安全性*8を保てず組織は崩壊してしまう。自分の人生でも思い当たるシーンが多々出てきて、感想でも共感している人が多い印象だった。

 

”多様性”は発展途上

途中、停滞する状況に痺れをきらしたガンちゃんは、演出担当を買って出て”支配する側”へまわる。ここで繰り出されるガンちゃん無双では”多様性”を掲げ女子更衣室を共用に変更し、さらなる混乱がカンパニーを襲う。

”多様性”を認識しつつも”インクルージョン*9に至らず、それどころか違いを無視し”同化”*10を迫る…という現代日本をカンパニーにピンチインさせる神保節がさく裂していて、書いてて楽しかったろうなあと思ったし、この”同化”のその先をどう見るのかな、いつか描いてほしいなとも期待している。

 

少し気になったところ

アンヨ「空に打ち上げられてしまって、私もう、戻ってこられないんじゃないか、そんな気がしました。『私は、かもめ――』

というセリフと、ラストのアンヨのインタビューの前提となりうる、稽古場で居場所を見失い、逃げ出したアンヨが夢の中で「私はかもめ、私はかもめ」と呼びかけるシーンの元ネタについて。

「私はかもめ」=ロシア語で「ヤー・チャイカ」は旧ソの女性宇宙飛行士テレシコワが地上の管制室へ呼びかけた際の言葉であり、すなわちアンヨがスマホを通信機器に見立て、「私はかもめ、現在地がわからない」と管制室…パイプ椅子に並んで腰かけ、スマホを弄る面々=SNSでの反応…へ呼びかけるも、救いの手どころか罵倒が返ってきた、なんという悪夢だろうか、、、という演出意図はともかく元ネタはどのくらい伝わっただろうか。KAMOME第一作目の『家』にて、「私はかもめ」はテレシコワの救難信号である*11、という説明はされていたが。

それでも鮮烈な光と闇と音と演出で観客の視覚聴覚と口をこじ開け、己の脳髄を喉に直接流し込む神保スタイル&キャストの丁寧な芝居の合わせ技で観客に直感的にシーンの意図を理解させる事は成功しているし、有無を言わさずイメージをねじ込んでくるところがエリア51作品を狂おしく好きな所以でもある、のだが、『喪』の受胎告知といい今回の「私は、かもめ」といい、元ネタが分かるとイナズマのような知的オルガズムを得られる仕込みであることも知っているので、サイレントに教養を要求するのもオシャレだけど、もっとそれを多くの人に伝わるような落としどころがあったらいい、もっとみんな気持ちよくなれたらもっと素敵だなと思う。わかる人に分かればいい、というなら私は神保の頭蓋骨に張り付いた髄膜のかけらをも貪るまで。

 

また中盤のキャスト同士のすれ違いや心中吐露のシーンはキャッチーで分かりやすいがやや尺が長く、長く揉めていた割にアンヨの帰還やインタビューの一言でそれをまとめていたり、ラストの少女と神保がまぜくぜになったセリフは短く抽象的で、飲み込んでも腹に落ちてくるまでに少々時間がかかってしまい、そのうちに少女が美しく幕を降ろしてしまう。個人的に”少女”とペルソナの問題にはだいぶ距離があるように見えた。だからラストの少女のセリフもふんわりと感じてしまうのかもしれない。”少女”が覚醒して自らが渦中にとびこんで、それでも救えなかったというキャラクターなので仕方がないのかな。第一項で紐解いた”俯瞰と喜劇”および”少女カモメ”の回収っぷりが、方々の境界線をじわりとにじませ融合させていたのに対し、ペルソナについてはドン!ドドン!と時速165kmストレートで投げ込まれた印象がある。パンフレットの書きぶりからおそらくこちらがメインのテーマだったと思うのでわかりやすく直球に置いたのだと受け取っている。

 

このペルソナについては、キャストインタビューなどで「『こういう人いるよな』『こういうすれ違いってあるよな』という共感を舞台から感じてほしい」と言及されており、確かに心当たりのあるシーンや言動が舞台上で繰り広げられる。あんな事あったな、こういうこと言われたよな、むしろこれ私が言ってたわ…そんな共感、そして自分だったらかもめカードに何を書くだろうか。そんな視点で私たちは物語を眺め持ち帰る。

そこから先。私はそこから先の話がしたい。

本作におけるペルソナについて、組織運営という視点から少し掘り下げさせてほしい。

 

 

 

”わたし”に刺さったもの

と、組織運営論をずらずら5000字ほど書いたが、無意味なので消した。

各キャラクターの思考と行動を分析し、必要とされるリーダーやメソッドを提示したところで宗ちゃんはもう戻ってこない。

 

この舞台「カモメ」を見て初めて味わった感覚が、”私の分裂”だ。

物語の筋と構造と、さらには宗ちゃんの死の回避の糸口を俯瞰で冷静に探す”私”。

一方で板を前に沈み、淀んだ精神世界の底から仰望する”わたし”も同時に存在した。

舞台上で吐かれるセリフはどれもわたしのもので、どれもわたしの中に存在する感情で、それに対する言い訳めいたざわめきが縄となってわたしの首を絞める。高尚にやれ無意識バイアスを自覚しろだの、心理的安全性を確保するための仕組みづくりが必要だのと説きながら、私だってやろうとしたもの、一人じゃどうしようもなかったもの、だってあの時の私はひとりだったから、だって、だってと後ろを向く。脚本・演出・キャラクターが丁寧に配置していく予感を一つずつ拾い、物語の行く先をある程度予見してしまう。”神保”と”少女カモメ”に一縷の望みを抱くも、やはり変えらない結末への心中。鳴りやまない目覚まし時計の音の中、手のひらに知らずのうちに握り込んでいた罪のかけらで自分が共犯であることを自覚する。

 

そして何より私は彼らが羨ましかった。彼らは舞台「カモメ」という虚構を生きて、現実へと帰っていった。私はどうか。現実に不満があるわけではない、でも板の上で繰り広げられた魂の対話が眩しすぎて、ニーナさながら虚構の作り手への憧れに喘いでいる。己の思考回路をさらけ出し具現化する作業は死線が見えるというが、こうやって才ある誰かの活躍を後押しして、それに自分を投影しているだけのわたしには甘美な痛みに見える。なんと傲慢な。反吐が出る。

千秋楽を迎えて10日以上経ちカンパニーの面々が次へ歩を進めているというのに、私は未だに舞台「カモメ」に囚われている。配信チケットも買っていたのに、この眼で見たものが美しすぎて、上書きしたくなくて、配信も見ず終い。この10日間ずっと脳の余剰メモリをすべて舞台「カモメ」の反芻に割いている。光も闇も音も息遣いも足音も眼差しも、鮮明に覚えている。唯一劇場で見た景色と違うのは、その場にはもう私しかいないことだ。

 

目覚まし時計が鳴っている。ホワイトアウトしていく視界の中で、私はひとり雪に膝をつき舞台を眺めている。みんな行ってしまった。”少女”ももう舞台裏を生きている。私はまだ目覚めない、目覚めたくない、まだこの舞台を噛んでいたい。舞台をのみ込んでしまった今、対象を失った奥歯は頬の内側を噛む。血の味がする。足元にできた赤の斑点を眺める。

少女「私も、何者でもなくなります。名もなき『少女』でさえなくなります。あなた方の生きる舞台裏という名の本当の舞台をまた始めます。」

待って、行かないで。

少女「どんな筋書きにも、いつかは終わりが来る。どうかこれからも、何もかもが本当に終わる最後まで、その全ての幕が無事に降り続けますように。」

うるさい。勝手に祈るな。

 

虚構と現実の狭間で、血の混じった雪玉を板の上へ投げる。

空を切る気配にわたしは絶望する。

俯瞰で見るこの”わたし”は美しいだろうか。

 

 

‥‥”わたし”はこの筋書きでは死にたくない。でも。

 

Я чайка 、

わたしは、かもめ。

 

 

 

 

 

*1:フライヤー:公式サイトよりf:id:maromayubanana:20211218002534p:plain


*2:ステレオタイプ脅威…「私は新人だし」「みんなはプロだし」

*3:インポスター症候群の傾向あり…「僕は――才能がないから。自分が思いつくことなんて大したことないんだし。」

*4:台本ではチョコレートではなく財布を取りに来ていた。必然性の高い財布ではなく、単なるおやつのチョコレートを取りに来させる演出がすごく「ガンちゃん」で大好きだ

*5:アインシュテルング効果

*6:集団同調性バイアス傾向

*7:台本を書き換えるか揉めるくだりでは唯一まともな発言をするが、ワンコに一喝され黙ってしまう

*8:何を言っても大丈夫だ!という安心感。これがあると組織のパフォーマンスが向上、組織運営において最も重要とさている:2012年 Googole「プロジェクト・アリストテレス」より

*9:包摂:多様性を尊重し、認め合い、良いところを活かすこと

*10:多様性社会は排除→同化→差異化→包摂の段階を経て発展していく。同化は違いを無視し、単一のカテゴリに染めてしまうこと。

*11:„Я чайка“ =Ya · Chaika =„here, seagull“…実際は「こちらカモメ」=「もしもし管制室」くらいのニュアンスだったが、チェーホフのかもめのニーナのセリフと同じであるという理由で、若干ニュアンスがロマンチックに装飾されてロシアのお茶の間および日本含む外国へ伝播したといわれている