首を絞める真綿を焼き切る光とは ―「掃除機」@KAAT
不躾に開けられたカーテンから日の光が差し込む。仄暗さに慣れた眼の奥をその光はチクチクと焼く。
太陽なんてどうだっていいんだよ。
私はお前に、向き合ってほしいだけ。
交わらない視線、越えられない壁
大学で人間関係につまづき、以来自室に引きこもり続けている50代のホマレ(家納ジュンコ)。
ホマレの弟リチギ(山中崇)は毎日シャツをズボンに入れて身奇麗に外へ出かけるが、行き先は図書館、公園、河原を流浪する無職の身。
そんな二人の父チョウホウ(モロ師岡)は妻に先立たれ、もう足元もおぼつかない80代の老体である。
そんな家族を長きに渡って見守り、時に話し相手として寄り添ってきた「デメ」と名付けられた掃除機(栗原類)。
家族の独白を、デメが受け止めるという形で物語は進む。
ホマレは昼間に自室に掃除機をかける。掃除機をかけている間、ホマレは階下に向かって罵る。
「お前のせいでこうなったんだ!」
上から聞こえてくる吠え声を、リチギはイヤホンで耳を塞ぎチョウホウはテレビをつける。
「あれはね、お前、ってのは死んだ妻のことなんですよ。私のことではないと言ってくれてるんですねえ」
チョウホウはそうとぼける。
出かけようとするリチギを引き留め、冗長に新しいコーヒースタンドで買った豆の魅力を語る。口もまわらず足元もおぼつかないチョウホウ(モロ師岡)だが、厳格然とした父性(俵木藤汰)も、朗らかな感受性(猪股俊明)も依然現役である。あるのだが、彼なりのコミュニケーションは自分本位であり、ホマレのほうもリチギのほうも向いていない。あくまでもチョウホウの内に向いたコミュニケーションになってしまっている。
ホマレはまっすぐに自分と向き合ってほしかった。
生前の母が”社会への接続”である復帰プログラムばかり持ってきたこと、チョウホウが親戚へ顔を出すよう、日の光を浴びるよう強制してきたこと、それはどちらもホマレの望んだものではなかった。ホマレも、姉にばかりかまけて住みづらい部屋を与えられ、火傷にも気づいてもらえないリチギも、まっすぐに自身そのものに向き合ってほしかっただけであったのに。
閉塞した一家は、事態の解決を「死」に求める。
とりわけリチギは死への羨望を恍惚の表情で語る。デメにスマホを持たせ、小説のような語り口上を撮影しスマホの中に理想の自身を閉じ込める。逃避の欲望はあるものの、図書館・公演・川辺を流浪する。
そんな折り、かつてのバイト仲間のヒデ(環ROY)に再会する。
サンパウロの自由な街路樹。ヒデの後押し。リチギは彼が退屈しないように漫画を購入し家を出る。
「困ったなあ…」
ヒデの介入でギリギリを保っていた家族のかたちが壊れる。
ヒデは居座るだけで、なにもしない。
このままだとチョウホウかホマレのどちらかがくたばることでしか事態の打開は難しいだろう。リチギの絵葉書で、また何かが変わるだろうか。
ところでデメは気づいているだろうか。
ホマレに連れまわされながら罵りを聞かされて、蹴られ、愚痴を日々聞かされ。
ホマレから立派なDVを受けていることに、自身も手を差し伸べられるべき存在であることに彼は気づいているのだろうか。
「リスペクトしてほしいんだけどなあ!」
デメが慎重に保っていた均衡を壊したヒデに対する反応も、児相等の第三者の介入があった際の子供の反応そのものだ。
そんな彼に「もっと視野広くもった方がいいんじゃないの?」とヒデは言う。
目をひんむくデメ。そこでこの物語は終わる。
何も解決していない。電力の及ぶ範囲しか生きられないデメは外に出ることは叶うのだろうか。どうやったってコンセントを抜けない、抜いたところでどうにもならないと知っているデメは家に留まり続けるしかないのでは、と閉塞した部屋の空気で肺を重くした。
カーテンコールの後、奥に消えていく家族に反し、ヒデがざあっ、と暗幕を開ける。
ビルに隠れきれなかった太陽が眼の奥を突き刺して痛い。思わず両目を手で覆った。
覆ったままでいいのだろうか。でもまぶたをも通り抜ける不躾な太陽の暴力性がなければ、未来は見えないのかもしれない。
雑感―美術や演出や類くん環ROY氏など
会場に足を踏み入れてまずその舞台美術に息をのんだ。
まるでスケートボードのコースのごとく歪曲した床≒壁。重力に抗いながら這い上がったり、しがみついたりする姿が現状脱却からの難しさをフィジカルで表現されていてとてもよかった。壁に手が届いたもののずり落ちたホマレの「まあ、どうだっていいけど」が悲しい。
また、親戚に顔を出すようチョウホウが二階に上がってきたシーンでは、バルコニーに置かれたテーブルとイスがやけに目についた。応接間の親戚のプレッシャーが視覚化され、良い効果だった。
またホマレのベッドにあるタオルや裁縫箱、大事にしてるぬいぐるみが「うちのタマ知りませんか?」のタマなのも、ホマレの止まってしまった時を見せつけてきた。
演出の面においては、リチギのキャラクターの立たせ方がとても楽しかった。
現実の自分と夢想の自分、芝居口上で夢想に逃避するとき一瞬だけ「わたし」になる一人称、相手が退屈してるのもお構いなく自分の話をまくしたてるチョウホウそっくりなところ。
出てきた瞬間に「掃除機である」と飲ませてしまう彼の眼光。冷静に家族を見つめているようで、瓦解しかけている家族を深く愛している、だからこそ慎重であるその姿勢の危うさにとても惹きつけられた。
今作の転換を全て背負うヒデを演じる環氏。中盤にかなりの長尺台詞を担う。
けだるげに切り出されるその論はやがて地を打ちリズムを刻み、太陽の光のように観客に差し込んでくる。この世界はクソだらけ、クソにまみれないためには何もしないこと。ヒデ自身は何もしていない。でもリチギが家を出る決定打を与え家族の均衡をぶっ壊しているという矛盾がとても面白かった。そういえば歪曲した家の美術に気をとられ、彼のいるDJブースに気付くのにしばらく遅れた。視野が狭いと、わずかなきっかけも見逃してしまうものだなとあの卓を眺めながら思った。
閉じた空間の内にいるうちは身動きがとれない。状況を打開するにはヒデのような、まぶたをも透過する太陽の光のような無遠慮さが必要だ。雪の静かな朝を愛でる者にとってそれは不快なものかもしれない。恨まれる結果になるかもしれない。でも解決の道のひとつならば、恨まれてでも太陽にならなければいけないのかもしれない。行政が、とかではなく、わたしたちひとりひとりがまっすぐに見つめなければいけない。広い視野を持たねばならないのは、みな一緒なのだから。