マカロニ。

おたく魂をぐつぐつ煮込んで

リフレインに塗る薬 ーエリア51「ハウス」―

白く四方を囲まれたマイ・ハウス。

そこで繰り広げられる、生活という名のリフレイン。

 

www.area51map.net

 

 

リフレイン

生きていかねばならない。食べなければいけない。

そのために働かねばいけない。

生かし続けなければいけない命が目の前にある。

この子の生殺与奪の権は私にある。しかし選ぶ余地はない。

生かし続けなければならない。食べさせなければいけない。

そのために働かなければいけない。

私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

世話をしてやらなければいけない。手をかけてやらねばならない。

そのために働かなければいけない。

この子の意志を尊重してやりたい。

そのために働かなければいけない。

私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

世話をしてやらなければいけない。手をかけてやらねばならない。

上下右左、うまく付き合っていかねばならない。

私の夢も叶えなければいけない。

しかし私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

世話をしてやらなければいけない。手をかけてやらねばならない。

この子の描くものをちゃんと見てやりたい。

私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

上下右左、うまく付き合っていかねばならない。

頭を下げなければいけない。

私とこの子の生活を遂行しなければいけない。

この子の事を理解しなければいけない。

私は頑張らなければいけない。

ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、

これは身をちぎった痛みだろうか、それとも蓋をした腹の内の鬼が振るう金棒か。

この子と私の生活を遂行しなければいけない。

上下右左、うまく付き合っていかねばならない。

散らかった部屋を見られてはいけない。

大丈夫なので。大丈夫ですから。

 

チチ「ママと走るの?」

ママ「そう。いいでしょ?ほら行くよ!」

 

この子は私と走っていかなければいけない。

走らせなければいけない。

この子は私と、この子、この子は、私がこの子と、私は・・・?

 

チチ「太陽と目が合ったね」

ママ「太陽に目はないよ」

チチ「この時間になるとね、太陽とお話しできるんだよ」

ママ「なに言ってんの、そんなわけないでしょ」

 

頑張ってるから。普通に生きてるから。

どう見てるのか知らないですけど、これがうちの普通なんで。

 

 

ママ「頭をよぎっていたのは、自分のことばっかりだったんです。」

生活をすること、日々のリフレイン。

その中で持つものが増えていけばどうしたって優先順位づけが必要になってくる。

子を持てば、子の生命を維持し、社会で生活できるように育てるということが必然的に最優先となる。子は私なしでは生きながらえない。それは産んだものとして、生活を一にするものとしての責務だ。子の成長に喜びを感じながら、生活を遂行してゆく。

 

一方で、”わたし”がいつもその姿をうしろから見ている気がする。

気になるコンテンツとか、やりたい事とか、着たい服とか、やりたい仕事とか、できたであろう事とか、自分の半分を分けた子なのにわけわからんなコイツ、とか、他人からの視線とか、Twitter見たいなとか、いつまでこれ続くのかなとか、いろんなものを両手いっぱいに抱えてじっと私を見ていて、不意に私の眼前に抱えてたものを置きにくる。少しの罪悪感とともにそれに手を伸ばす。ごめんね、一瞬だけだから。

泣き声。

ああ、戻らなきゃ。

罪悪感は少しのいらだちとなって小指にからむ。寝顔を見ながら、さっきの一瞬でこの子を見ていればよかったと、やっぱり落ち込む。でもそんな私を”わたし”はじっとりと見ている。その視線をずっと突き放すことができない。

 

たいてい「何か」が起きるのは、”わたし”と目を合わせてしまっている時だ。

最優先事項はわかっているはずなのに。”わたし”より優先すべきことがあるのに。あの一瞬でもっと気を配っておけばこの子は泣かずにすんだのに。ヒヤリハットですんだ事もすまなかった事も、ぜんぶ私と”わたし”のせい。

 

チチ「ううん、足がない。チチの足がなくなった。チチの足どこ?」

 

血の気が引くとき、ざあっ、という音が私を”わたし”から引きはがす。

その音がすると勝手に身体が対処に動く。本能というものはよくできている。でも理性を持ついきものへ進化したならば、そもそも本能が動くような事態にしちゃあいけないのに。なぜ理性は”わたし”を排除しきれないのだろう、そんなことを考えながらきびきびと手当のため動く私の手を”わたし”は眺めている。またひとつ言えないことが増えていく。

 

 

「気持ちに塗る薬は、気持ちしかない。」

私たちはリフレインする生活のなかで、どうしてもやせ我慢をしてしまう。

やせ我慢というよりも、薬の施しをうけることで、必死にちぎってきた身の欠片の意味を否定されてしまうような気がして、大丈夫、普通なんで、必要ないです、とかぶりをふってしまう。長女の出産後、振り返れば私はあきらかに産後うつだった。風がふいただけで絶望にさいなまれていた。吐き戻しの染みだらけのよれた服に身を包み、いやにぎらぎらした目で「夫も子を見てくれますから、大丈夫です、悩みなんてないです!」と言い張る私。訪問してきた市の保健士は、何か言いたげにしつつも書類の「問題なし」の欄に〇をつけた。「ダメな母親」になりたくなかった私は、それ見て自分でひとつ退路を断ってしまったことに気付くも、その問題なしの〇を自らの十字架として背負うことで妙に安堵したのを覚えている。その後は結局、家族も自分自身も傷つけてボロボロになったけれど。

 

ノゾミ「気持ちに塗る薬は、気持ちしかない。」エリア51「女ME」より

 

他人に薬を塗ってもらわないと治らない傷がある。

塗り、塗られ、ぬぐって、また塗られ。

やさしく効く薬、

効くけどしみる薬、

ありがたいけど検討違いな処方の薬。

 

厄介なのは、塗った方がいいのはわかっているけど触れられたくない、という無意識の意地。他人に傷に触れられるのは痛い。触れられるくらいなら暑くても長袖を着て傷を隠してしまえ、そうやって傷を化膿させてしまう。周囲は薬箱を携え声をかけてくれているのに。

 

チチ「こっちはお日様だよ」

ママ「いいの!見つけてもらわないとね!」

ママ「お醤油、なかったら借りればいいし、縁側、なかったらピンポンするの。そうするぞ、明日から。」

袖をまくり、傷を見せる勇気。ママはその決意の姿で私に薬をぬってくれた。他人に薬を塗ってもらわないと治らない傷がある。治すには、まず傷を見てもらわなければいけない。へんな意地は捨てて、”わたし”ごと傷をさらさなければ、いつまでも息はできない。しみたって、変な臭いがしたって、一応薬は薬だ。薬が合わなかったら合わないと言えばいい。違う薬がないか一緒に探してもらえばいい。そしていつか私が薬を塗る側にまわったら、しみない薬か、変な臭いがしない薬か慎重に見極めたいし、傷に触れる手も優しくありたい。突き刺す西日ではなく、穏やかな木漏れ日となれたなら。

 

チチ「がんばれーっ!ママ、がんばれーっ!!」

こんなにそばにも、薬を塗ってくれる存在がいた。

転んで、薬を塗って、塗られて、立ち上がって、走る。この世に産まれてしまったら、みんな走り続けなければいけない。

チチ「ママと走るの?」

ママ「そう。いいでしょ?ほら行くよ!」

二人三脚、がどんどん増えて、ママが命を果たしたあともチチと共に走るひとが一人でも多くあってほしい。太陽に見つけてもらいながら、自身も太陽となって生きる。転んだ誰かのために振り向いた時、きっと虹は見えるのだと思う。

 

 

美しかったもの

ともすれば苦すぎるリフレインを飲み込めたのは、この「ハウス」がとにかく”美しかった”からだと感じている。

良薬口に苦しというけれど、人は初めて見るものを口に入れられたとしても、すんなりのみ込むのはなかなか難しいが、”美しかった”なら、薬をつつむゼリーのようにのどごしの良いものになる。それが、多くの人に伝えていくということなのだと身をもって痛感した。

白い線と黒の子

「ハウス」内と社会を分かつ線、それを幾度かうごかす黒子たちは社会にうごめく誰かの生活の一部。寸分違わず引かれる線と、毎朝投函される新聞、届く郵便物。否応なしに流れる社会の視覚化。

ハウスで虹を描くチチを照らす光、どこか靄がかかったような井戸端会議の廊下の蛍光灯、お前たちを逃がすまいと射貫く西日、雨の冷たい湿気、心をかき乱すテレビの三原色、浸食する鬼の青い瞳、隔絶された「ハウス」の壁、と意地をとりはらっていく白。

 

止まらない身体

走る、回る、飛びのる、手を引く、よりかかる、投げ飛ばす。

絶え間ない動きとぶつかりは生活や育児との取っ組み合いそのもの。二人の汗とあがっていく息づかいは、観客に確かなものとして伝播してゆく。

 

チチ/小松弘季

舞台にあらわれ、虹を描く手のひらと視線。その研ぎ澄まされた集中力で場を掌握し、チチが見ている世界、チチが描こうとしているものを表現し観客へチチが何たるものかを一瞬でわからせた。あの一瞬でチチは観客の”わが子”となり、観客を「ハウス」へと取り込む。とても見事だった。一番最初にチチの見た虹がとても綺麗だったことを直感的に理解できたからこそ、私たちは薬箱を手に取る勇気を持てたのだ。

ママ/天野莉世

立て板に水のようにママから紡がれることば。日常の脳内で繰り広げられる自己対話や納得して進むためのロジック、他者への小言など、私の感情のるつぼが板の上で舞っているかのよう。だれもが自分をママに見出していて、一緒に走って転げまわって、あふれ出てしまった感情が動かす指先と、涙を流しながら「お願いだから、泣かないで」と声を震わせる矛盾した台詞に共鳴した。私たちはママとともに”生きた”と思う。

 

 

これからもリフレインは続いていく。続けていかなければいけない。社会と、生活と、家族と、私と、”わたし”と取っ組み合って傷をつくったとしても、その傷を恥じる必要はない。傷を見せるのは勇気がいることだけど、きっと誰かが薬を塗ってくれる。私もいつか誰かに薬を塗ってあげられるだろうか。いつかのその日のために、ちぎって投げた欠片を大切に集めながら生きていきたい。