特撮は、道徳だ -ハイヒロが提示する”私”のありかた-
人は生まれて父母祖父母そのほかの「アバババババ~」を聴き聴覚を養い、「いないないばぁ!」で歌って踊るという概念を受け取り、「おかあさんといっしょ」で物語を知る。
その次に相見えるのは何か。
そう、ニチアサである。
ニチアサキッズタイム、つまりはキッズのための特撮・アニメ番組が放送される日曜朝の時間帯を指す。歌と踊りと物語を知った幼子は、ニチアサで社会と道徳を学ぶフェーズへと入るのだ。
善と悪、正義とは何か。
スーパー戦隊、仮面ライダー、プリキュアたちの戦いの姿を通して、社会の中の善悪を学ぶ。
しかしニチアサが発信するのはそれだけではない。
これから社会という理不尽な大海に放り出される子供たちにむけて、より良く生きるための倫理道徳をも説いている。
道徳であれば、しまじろうもそれを生業とするコンテンツである。しかしわざわざこのニチアサをフィーチャーするのは、ニチアサの道徳は「常に更新され、新たなスタンダードを発信し続けている」ところにある。親では成し遂げられない、メディアだからこそできる教育である。
好きなことは好きだと主張していいこと、何にだってなれるということ、賞味期限の切れた芋ようかんを食べてはいけないこと、大切なものを取り戻すために犠牲はいとわなくてもやはり隣には君がいてほしいこと、クリスマスにはシャケを食え、場面によりペルソナを使い分けることは決して悪手ではないこと、特別な力を持つからといって奉仕を強要されるいわれはないこと…
導く立場であるが、あくまで前時代の人間である親では気づくことのできない最新の「道徳」を教えてくれるもの、それがニチアサなのである。
現在絶賛放送中の「ザ・ハイスクールヒーローズ」(以下「ハイヒロ」)もまた、日曜朝の放送ではないものの、立派な道徳を説くニチアサイズムを継承する特撮番組。
主演にジャニーズJr.の美 少年を据え、シナリオにゴレンジャーを絡めるという、ジェイ・ストーム&東映&テレ朝が本気で挑む、スーパー戦隊正史には組み込まれない亜流戦隊ではあるものの、ニチアサの血をしっかり受け継いだ立派な特撮番組である。
1時間という長尺*1でしっかりと描くドラマ部分も丁寧に作られ、美 少年ファンの若年層、往年の特ヲタどちらにも響く道徳を織り込んでいる。
「自分の招いた結果には自分で落とし前をつける」、1話はじめ各色ヒーローが覚醒するくだり。
「それが愛ゆえだとしても、自己の不誠実を他人のせいにしてはいけない」ため張り手を食らう2話。
「プライドは大事だが、生きていくために皆プライドを捨てる。いつか捨ててもいいが今ではない」3話。
「負けたら悲しい、でも悲しみを知ると人は優しくなれる」5話。
上記だけでも大人の階段を上る渦中にある若者、そして酸いも甘いも嚙み分けた大人が改めて振り返るべき道徳であるが、このハイヒロの道徳性が一番光ったのは、性自認と身体的性に違和感を覚えるトランスジェンダーを抱える桜井一嘉(いちか)が、モモヒーローへと覚醒する第4話。
ここからは、第4話で我々が学ぶべき道徳をとり上げてゆく。
無知、知識、想像力
世の中には色々な人がいる。
一嘉の父
「何バカなこと言ってんだ、
(赤が欲しいといった一嘉に黒いランドセルを背負わせて)
ほら、男の子らしくて非常によろしい」
大成*2
「あーあ、一嘉が女だったらよかったのになあ。」
「モモレンジャーは女性なんだ。だからハイスクールヒーローズもそうあるべきだ」
雄亮*3
(上記セリフで一嘉が顔を曇らせ、立ち去ったのを見て)
「…大成、ちょっと黙ってろ、余計な事するな。」
(大成に「俺の何が悪かった?」と問われ)
「俺もはっきりとはわからない、イラついて悪かった。」
トランスジェンダーという言葉にほとんどなじみがないであろう、厳格な父の言葉。
知識としては把握していても、ゴレンジャーの法則と固定観点にとらわれ、身近な存在として認識していない大成。
大成よりは多少一嘉の機微に聡いが、本質まではたどり着けていない雄亮。
世の中には色々な人がいる。
多様性の定義が日々変化していく世の中で、自分のカテゴライズすらますます難しくなっていく。そんな中で他者を理解するのは、もっと難しい。
他者は己の柵の外にいる
一嘉は「これ以上みんなに嘘はつけない…まずはお母さんにカミングアウトする…!」と、自身がトランスジェンダーであることを母親に打ち明けようとする。
一嘉「お母さん、話があるんだけど…」
母 「うん、何?」
一嘉「‥‥‥‥。」
母 「彼女でもできた?」
一嘉「ちがうよ」
母 「じゃあ何?‥‥いいこと?」
一嘉「びっくりさせちゃったら、ごめんね」
母 「なんか悪いことでもしたの?」
一嘉「してないよ」
母 「いじめられてるの?」
一嘉「ううん」
母 「‥‥(ため息)」
一嘉「実は‥‥」
父 「ただいま!」
母 「はあい、おかえりなさい!(席を立って父を出迎える)」
(一嘉、父を一瞥しランドセルの回想)
母 「一嘉、話ってなに?」
一嘉「あっうん、なんでもない。ごちそうさま(笑顔を作るが食卓を離れる)」
金指君の繊細な演技も相まって、劇中もっとも胸がヒリヒリする場面。
一嘉はきっと、一番の味方になってくれるであろうとカミングアウトの相手として母を選んだんだろう。母も母として一嘉が大切で、期待をしていて、何かを打ち明けようとする一嘉のために展開を予想し言葉にする。
良いことなのか?の問いかけに「びっくりさせたらごめんね」と返され、今度は悪いことなのかと問う。息子に対する心配と、自衛のために。
一方、一嘉は提示される展開に落胆する。「彼女でもできた?」「いじめられてるの?」の問いに対しては露骨に嫌悪感を滲ませる。
自分の予想をことごとく否定し、なかなか話し始めない一嘉から目線をはずし、ため息をつく母。あげく、帰宅した父を優先し一嘉の話を一方的に中断する。一嘉の前には厳格な父、そして苦い記憶。とてもカミングアウトなどできない状況となってしまった。
母の想いもわかる。わかるけれど、よかれと思っての配慮が適切なものではなかったら大事な子の心のうちを受け止めることも叶わない。
トランスジェンダーのカミングアウトに限ったことではない。他人からは小さな悩みに見えたとしても、その重さは悩みを持つその人だけのものだ。他人が決めつけてはいけない。自分の既知の柵の中で、他者の悩みをラベリングはできない。できるだけまっさらな状態で相手と向き合わなけれなならないと痛感したシーンだった。
アップデート、ともに居るということ
強敵・日輪魔人に苦戦する4人の前に、一嘉が駆けつける。
一嘉「モモになりたいです!もう我慢したくありません!」一嘉「私、モモになっていいですか?!モモが、私でもいいですか?!」
大成「‥‥‥‥俺は、どうしようもないバカだ!こんなに近くに最高のモモヒーローがいたなんて!」
大成「一嘉、俺を見ろ!ヒーローつってもすげぇバカだし、ドジだし…でも、ヒーローがこうじゃなきゃいけないなんてない!俺たちは何者でもないし、なんにでもなれる!」
固定概念にとらわれていたことに気づき、己を省みて、価値観をアップデートした瞬間。
雄亮「こっちへ来いよ、一嘉!」
直哉*4「一嘉!」
一嘉「私がモモでいいんですか?」
龍平*5「それを決めるのはお前だ、一嘉!」
大成「俺たちに本当のお前を見せてくれ、お前の痛みも喜びも、俺たちはともに感じたい!」
一嘉の意思を尊重し、”一嘉の選択した姿”とともにあろうと呼びかける仲間たち。
解放、そして覚醒
一嘉「私は、誰のせいでもなく、誰のためでもなく、自分のために自分を解放する!…これが、本当の私!」
自分のために本当の自分を解放する。これは従来の他の作品でも取り上げられてきた。
しかし一嘉はその前に「誰のせいでもなく」と叫ぶ。
誰のせいでもない。
親が自身をトランスジェンダーに産んだのではない。親が厳格だったからではない。周りが古い価値観だったからではない。周りの配慮がなかったからじゃない。誰の、誰のせいでもない。
これは”私”の話。”私”が”私”としてここに存在するから、解放するのだ。
一嘉「人間はたくさんいます、世界は広いんです。9割に嫌われても残り1割が味方ならいいじゃないですか。先生である前に、あなたは自由な一人の人間です。」
丁寧な作劇
今作はLGBTの専門家の監修を受けながら*6、丁寧に一嘉とその周囲を描写している。
一嘉
「今、不思議な気分なんだ。感じたことのない解放感に包まれてる。」
「モモになった瞬間、本当の自分を大声で叫ぶことができたような、運命に逆らうことができたような、そんな気分になった。」
「モモヒーロー…怖かったけど、気持ちよかった」
抑圧されていた感情と罪悪感の放出、カミングアウトの際の解放感というものは凄まじいものだと聞く。アナ雪の「LET IT GO」が欧米のLGBTQ界隈に猛烈な勢いで刺さったというのも、あの曲の解放感と自身の経験がリンクしたからともいわれている。
まれに、「LGBTQのカミングアウトは我々に配慮をしろということか!」と拒否反応を示す人もいる。
でも私は、きっとそうじゃなくて、一嘉のように「私は私なんです」と言いたいだけであって、認めてほしいだけなのだろうと上記のセリフから受け取った。「無類のオムライス好きだと思われてるけど、私は本当はハンバーグ党なんです」、と打ち明けることと大差ない。ヒーローたちは熱く熱く一嘉を迎え入れたけれど、「そうか、そういう人なんだな」と自分の先入観と異なる他者が一人増えた、くらいの感覚で受け止められる世の中になったら、きっともっとみんな優しくなれると思う。
特撮は、道徳だ
時代によって、身に着けるべき道徳は変わる。時代どころか日々変化する。価値観のアップデートができないままだと時代に取り残されるし、自分も他人も生きづらくなってしまう。だから私たちはいくつになっても特撮を通して道徳に触れるのだ。子供も大人も老人もともに最新の価値観に触れ、考え、自分なりの答えを出していく。なんて素敵なコンテンツであろうか。
今回とくに美 少年を主演に据えたことで、特撮に触れる機会のなかった若い女性にもアプローチができた。これからの時代を生き抜く若者に、一嘉の言葉が自然と染み込んでいくのを目の当たりにして、いち特撮好きとして非常に感慨深い夏の夜であった。
そんな、良作ザ・ハイスクールヒーローズも早くも次が最終回!
嘘だろ?!なんでだよ!一年やれよ!!せめて劇場版はあるんだろうな?!と血の涙を流しているおたくは私以外にもたくさんいるよな・・・要望出そうぜ・・・
とにかくハイヒロ道徳を未履修のやつは今すぐTELASA*7で履修だ!!!今なら間に合うぞ、といやっ!!!