マカロニ。

おたく魂をぐつぐつ煮込んで

いつか、糸を結ぶ日まで。―舞台「粛々と運針」

stage.parco.jp

2022/2/13 PARCO劇場にて。

 

 

私として、母として

人生は選択の連続で、その選択で分岐した世界に進んでしまったら別の世界線に行くことは叶わない。いつだって悩んで、流れに身をゆだねるしかなかったり、決断したりして人生を進めていく。人生という時計の針は止まらない。でも人の心はどうだろうか。

 

長女・次女を妊娠したとき、真っ先に考えたことは「上司になんて報告しようかな」、だった。

生理がずいぶん遅れて3人目ができたかもしれない、となった時、「今は産めない」と思ってしまった。

 

私にとって出産は「女に生まれたからにはやってみたいこと」というToDoリストのひとつであり、検査にて卵子の在庫が少なく子を産むなら早く産まなければならない、というのがもともとわかっていたので、子どもを設けるなら早く決断しなければいけない…という理由から同期たちよりずいぶん早く産休・育休を取得することとなった。いくら制度が充実している会社であるとはいえ、第一志望の業界に入れて数年、期待をかけて育ててもらい、しかしまだまだ半人前の身分で「お休みをください」、と言うのはかなり勇気が必要だった。

そして3人目疑惑*1は育休明け初の大きい仕事がなんとか軌道にのりはじめたタイミング。同期たちはずいぶん先に進んでいる。よし私も!この会社での志もやりたい事もある!遅れを取り戻せるようにがんばるぞ、と新規部署立ち上げメンバーになるも、本当に何もしない・してくれない上司2人の分まで時短勤務の身で仕事をこなし、やっと光が見えてきたタイミングだった。

サラリーマンなど代わりはいくらでもいる。私がこの仕事を抜けたところで誰かがうまくやり遂げてくれるだろう。

でも私は?私がやってきたことは?私がやろうとしたことは?私が私にわたすための勲章は?

 

命は尊い

それは揺るぎない。

「目と心。奪ってみたいわ。」

奪ってみたいも何も、産声を耳にした瞬間から全てを奪われてしまうのだ。君と私の本能の共鳴。人として最初で最後の「わかり合える」瞬間なのかもしれない。

 

命は尊い。それは揺るぎない。

子どもたちを産んだことに後悔はない。まったくない。

ただ、女として生まれていなければ、とか、仕事一本でやってきていたら、とか、ヒトはなぜ卵でうむ方向に進化しなかったのか、とか、考えないわけでもない。

 

命という眩しい光を浴びる私の後ろには、長い長い影が伸びる。

やがて地面に焼き付いた私の影はそこにとりのこされ、先に進んだ私自身も、影がちぎれた足のうらがチクチクと痛む。

 

ヒトがヒトを産むにはたくさんのリミットがある。

背後でチクタクと刻む秒針が判断を迫り、余計に息が苦しくなる。

どの道に進んでも、必ず何かを手放すことに変わりはない。どちらも正解で、どちらも悪くない。はず。なのに。あのとき置いてきた影の行く末が、どうしても気になってしまう。彼女は別の世界線を無事に歩めただろうか。今元気にしているだろうか。

 

「キャラ物が入り込むのが嫌なのも、お母さんをやれてしまうことが不安なのも、ぜんぶ本当のことなのにどうして信じてくれないの」

「どうしてその選択を後悔するって決めつけるの!」

「苦しんどるやろ!」

沙都子はおそらく自分の心の内を見せるのが嫌で、見せる・見せないの線引きがしっかりしている。その線を飛び越えることはきっと彼女にとって非常に苦しいものだ。應介がそれをちゃんと理解していて、齟齬に気付けて、落としどころがまだ見つからずともちゃんとわかって、会話をしようとしてくれる夫でよかった。應介といっしょなら、沙都子はどんな選択をしても置いてきた影とうまく付き合っていけると思う。私も当時、自分ひとりでジリジリ悩まずに話を聞いてもらう勇気を持てばよかった。命に対して後ろ向きな発言をしたら落胆されるだろう、軽蔑されるだろうという恐怖があった。けれど、ともに人生を果たす相手くらいには心の内を明かしてしまった方がきっと生きやすいし、相手もまだまだ見せていないカードを見せてくれるかもしれない。それが同じ道を選択した者としての「人生の果たし方」なのだと手を繋ぐ二人を見て感じた。

 

 

子として、他人として、遺されるものとして

「自分が自分であることを実感するには、他者に欲せられることが必要である」と哲学者ラカンは言う。

沙都子が”なんでもこなせてしまう”のも、應介が父親という役割から何者かにならんとするのも、結さんが振り回されてもなお餃子を作ったり、一の世話をやいたり、孫を切望して祖母という役割を欲すのもこれが根源だ。

 

一の「41歳実家暮らしフリーター」という肩書が若干ややこしくしてしまっているが、子が母に持つ「生きていてほしい」「自分の母であってほしい」という感情そのものは至極真っ当なものだ。紘は母の尊厳死の決断を尊重する言動を続けるけれど、きっとそれは奔放な父と兄に苦労させられた母と、そして自分のそれまでの人生を肯定したい気持ちの表れでもある。

 

田熊家が「自分の人生の果たし方」の話ならば、築野家は「残されたものの整理のつけ方」の話だ。母は一人の人間であった。その役割が死をもって剝がされるとき、自分は子ではなくなるのか、母、であった人は自分にとって何者になるのか、自分は何者になるのか。

 

「俺も…俺のお母さんなんだよ」

この最後のセリフでやっと紘の子としての人格が見えて、私は少しうれしかった。一は紘や田熊家を通して世界を少しだけ広げ、紘は少し素直になったところで、結が立ち上がる。

 

「このふたりの母親だったこと、確かに幸せだった」

そう告げて一と紡の頭を撫で、糸に手を振り下手へ駆け抜けていく結さんを見て、母として生きた自分と、金沢さんと出会い尊厳死を選んだ自分…ある意味かつて置いてきた自分の影とちゃんと手を繋げたんだな、と唐突に思った。

糸の無垢なピンクのおべべと対称に、様々な生地のパッチワークからなる服に身を包んでいた結さん。数々の選択と、かつて別れた影を縫い合わせる作業。最後は無垢な白を纏って去っていく。

法被や筏を渡したら責任を果たした、と言わんばかりにしらーんぷり。

尊厳死を選択して余生をすごすことに対して、後ろめたさももちろんあったのだろう。残される息子たち、とりわけ一を放り出す形になることを、花筏の行く末に重ねため息交じりに語る。それでも彼女は針を動かし続けた。

 

 

…ふと思ったのだけれど、糸ちゃんは自身の産着を、結さんは自身の白装束を縫っていたんじゃないだろうか。飛び込んできた命に悩む両親と、母の死…二重の意味での死に整理をつけていく息子たちが一歩、いややっと半歩踏み出そうとしたところで2人の衣装が仕上がって、手をふりあって別れたのだとしたら。糸を結んでこの2人が進む先は正反対だけど、ともに愛おしい葛藤を共有した運針の時間はとても穏やかで美しい。針を進めていくことで、自分の命のハイライトを飾る。

自分の命を粛々と愛すること。

 

結局のところ、これが一番大事なのかもしれない。

 

*1:結局はストレスで生理が遅れに遅れただけだったのだけれど