マカロニ。

おたく魂をぐつぐつ煮込んで

とけない、とかさない、とけない。

厚さ13cm。

サンシャイン水族館のメイン水槽:サンシャインラグーンが湛える240tもの水量を支えるアクリルガラスの厚み。目の前にたゆたう、触れることができそうな水生生物たち。しかし彼方と此方ははっきりと、13cmの隔たりがある。彼らのためにも、私のためにも。

 

とけない

人の中には感情がある。感情、の2文字ではすまない、矛盾もふくめてがんじからめの想い。堰を切って流れ出したらとまらない。流れ出した水は濁流になり大事なひとをのみ込んで、どろどろの泥濘しかのこらない。そんなことになりたくないから人は想いを水槽のなかに閉じ込める。傷つけないように、傷つかないように。

 

隣の芝は青く見える。となりの水槽も煌めいて見える。

ただ芝と違って、となりの水槽に飛び込むことはできない。せいぜいできたとして水槽同士をくっつけるくらいだ。でもそうすると、隔たりの厚さは倍になる。とけないその厚みが、とけない誤解を生む。

アクリルガラスに映る自分の顔。捕食のすがたは悪魔の形相。でもひとは私を天使だという。となりの水槽はまぶしい。その光を捕食する私は、私は。

淵でじっと時の流れに耐える。でも時は流れるものではなく堆積するものだ、だから美しいのだと突如飛び込んできたタイ焼きは言い、「また明日ね」、と言い残し泳ぎ去っていった。なんども流れゆく「また明日ね」を聴きながら、やっぱり時は流れていくんじゃないか、ならばこの流れにのせて大海原へあの子をゆだねなければ。そしてこの淵で、私はひとり。

寄り添っているつもりだった。ともにたゆたい、いずれは同じ星屑になると思っていた。しかし足りないぬくもりを求めて彼女に触手をからめていただけだった。墨色の残像の感触。おいていかないで、大きくなって私も泳がなきゃ、大きくなるために、食べなくちゃ。

 

それぞれのとけない誤解。でも絡まってとけない視線。会うたびに説けないことがふえていく。

 

ユカが見た夢。

大水槽を前に「大人スゲー!」とはしゃぐユノとアイ、を遠くから見ているユカ。ユカには2人がどんどん先に進んでいるように、大人になっているように見えていた。実際のところ2人は「大人なりたくねー!」と叫んでいたのだけれど。

「いっしょに来たかった」

というセリフが「いっしょに生きたかった」にも聞こえて、星屑のような群れの中で脈打つことに憧れつつも、選択肢が多いが故に動けなくなってしまったユカの息苦しさがひたひたと伝わってくるラストシーンだった。

溶けあえなくても、鮮やかなマーブル描きながら生きていけばいいんだよ。と言えるようになるためには、きっと彼女たちにはもう少し時間が必要。夢ではなく、いつか大水槽を3人そろって眺められる日が来ますように。

 

そのほか諸感

光への衝動を抱くアイをとても魅力的に、くっきりと演じていた佐藤日向さんがとてもよかった。「人付き合いは苦手だけど、人間は好き」というアイのキャラクターをモノローグ・クリオネ・ユカユノとの距離の詰め方で丁寧にメリハリよく演じていて、佐藤さんのこともアイちゃんのこともとても好きになりました。一方、アイが出てくるまでのユカ・ユノの関係性が若干のみ込みづらく*1、序盤はセリフを取りこぼさないように耳に集中しなければいけなかった。アイのキャラクター像が圧倒的光属性(陰キャコミュ症だし、行動は裏目に出るし、大学で挫折して中退するし、自分の過去の行いはやはり悪魔だったと絶望するけど、生きていくことに関してはタフで根アカなので)なのに対し、ユカユノは無限・有限の絶望担当としてどこか自分を殺さないといけない&互いこじらせた愛情を持っているので、材料を序盤に全て出すわけにはいかない部分もあったのかな。現場だとその空気感も掴めたのかもしれない。

 

私は劇場でお芝居を観るという経験しかしたことがなかったため、本公演のように劇場以外の場所で行われるお芝居は面白いなと感じた。芝居のことなど気にせず存ぜぬで漂うクラゲの存在や、劇場とは異なる響きをするセリフや演奏は実際に体感してみたかった。もともと演劇は街の広場で行われていたものだし、今後もこのような劇場ではないところで、日常と地続きの場でのお芝居が増えてほしいし、触れてみたい。*2

 

今回は特典付きの配信チケットを買ったので、メイキングもたっぷり見れて嬉しかったし、このあとパンフとブロマイドが届くのも楽しみです!首を長くしてまってるよ~~

*1:めっちゃ仲良し!にも見えないし、腐れ縁というには材料が足りない

*2:もちろん劇場も大好きなのでいっぱい行きたいし配信劇ももっと見たい

深淵を渡る ―加藤シゲアキの連続する螺旋

加藤シゲアキは、ソロ4作でどう生きたか。

曲とライブでの演出で、彼の人生を紐解いてみたい。

 

あやめ ―無垢な救世主の誕生

決して空想 夢想の彼方

曲中に4回登場するこのフレーズは、出てくる度にその意味合いが変わってゆく。

 

決して(=きっと)空想 夢想の彼方(なのだろう、あなたとの愛の人生は。

でも)今だけは そばにいて 離さないで

主人公である”僕”は”あなた”を愛している、でもその愛が世界に認められるものではないと半ば諦め、せめて今、あなたがそばに居る今だけはと刹那的な感情で詞を綴っている。

街では灯りが揺れている、僕とあなた以外の人々の生活が、コミュニティが、淡々と続いている。目覚めの鐘の音…何かが変わろうとしているのに、まだ誰もそれに気づいていない様子だ。でも僕には聞こえる。あなたの歌う声はこの街では雨音に流されてしまう、でも鐘の音とともに”僕”の中に無垢に染み入り巡っていく。

 

決して空想 夢想の彼方

今だけはキスしてよ 世界は光の地図を求める

だから僕は生きていく

はじめの「決して空想 夢想の彼方」とニュアンスはほぼ同じだ。刹那的で、”僕”と”あなた”のぬくもりにフォーカスされている。しかし”僕”の目線は”あなた”から少し外れる。街の雑踏から離れ鐘の音に導かれるように、光の地図…”僕”と”あなた”の理想郷を探すことに己の生の意義を見出し始める。

ここでつづられる”世界”とは、「僕とあなた」。このぬくもりを確かめられる、街の隅の小さなこの世界。それを守るため、光の地図は無いかと”あなた”に抱かれながら思う。

 

紙で切れた指先の痛みのように、誰しもが経験していても、他人には完全に伝わり切らない不自由な疼き。”僕とあなた”/その他の人は100%理解し合えないことを胸に刻む。でも人の機微は簡単に線引きもできない。いま自分が持つこの感情だって、見ている景色だって、自分ですらはっきりと定義することは不可能だ。”わからない”、がちらばる世界。生きていくには荒野のように厳しすぎる。それでも”僕”は”あなた”と歩いていきたい。

ここが荒野であるならば、せめて”僕”と”あなた”の歩く道は自分たちの手で彩っていこう。与えられるラベルはいらない。与えられる定義もいらない。今この瞬間の色を塗りこめ、踏みしめ飛ぶ。”あなた”の手のぬくもりが僕の色だから。

 

決して空想 夢想の彼方(などではない。

これから進み続けるから)今だけはキスしてよ 

世界は光の地図を求める そして僕は生きていく

”僕”は夢想だろうと思っていた”あなたとの愛”の道を創る覚悟を決める。「そばにいて、離さないで」と受動的だった”僕”が、”あなた”の一歩前を進みだし虹を駆けあがる。この「世界」は「僕(+あなた)」、幼気に歌う”あなた”の手を”僕が”引く。

僕が”あなたを必要としているから。

僕が”あなたを愛しているから。

だから”あなた”も踏み出してほしい、きっとこの先は美しくなるはずだから。

虹の頂点で”あなた”に、世界にそう訴えかける。

 

消して嘘 感傷よ 放て

どこまでも

啓示だろうか。

なぜかこの言葉を前から知っていたような気がする。

 

決して(どんなことがあっても)空想 夢想のあなた(などにはしない

今だけはキスしてよ

世界は心の奥底にある だから僕は生きていく

先を歩む者としての覚悟。荒野には無かった光の地図、ならば己が地図となろう。

気付けば虹を駆けあがった”僕”の周りには様々な者がいた。淡々と生活を重ねていたように見えた街の人々も、複雑なグラデーションの中でもがいている。

 

虹を歩いてく

七色の光を手に、”僕”は世界の蜘蛛の糸となる。

生まれたばかりの無垢で美しい蜘蛛の糸を求め伸びる数多の手。その全てを救わん、と

”僕”は呼吸を始める。

 

 

氷温 ―理想の失敗、自己と他の分離

あやめの”僕”は、”僕”と”あなた”を同一視している。

”僕”が愛しているから、”あなた”も僕を愛しているから、”愛し合っている”から、「僕=あなた」なのだと。”僕”と同じ思いで虹を歩んでいるはずだと。

しかし人は人である以上、完全に同じ存在にはなりえない。

氷温は、それに気づくのが少し遅れてしまった”僕”の物語。

 

鏡ごしの君 知らない顔をしてる

多数の照明で縁取られた”君”…女優ライト、のような化粧鏡に映る”君”は”僕”の知らない表情。もう見つめ合うこともない、視線は合わない。鏡ごしでしか君を見ることができない。

昨日見た夢を 話しかけてやめにした

どんなに魅力的な夢を見ても、その面白さは当人にしかわからない。言語化した瞬間に味気なくなる「昨日見た夢」。紙で切れた指先の痛みは伝わらないものだと思い出し、”僕”と”君”が他人であることを痛感し口をつぐむ。”僕”と”君”の間に線が引かれていることを自覚する。

終わりを知りつつも諦め切れていなかった”僕”。夢の話をして君の気をひこうとしていた。ライムの香りでそれに気づき落ち込む。溶けてゆく氷がとめられないように、もう結末へのカウントダウンは始まっている。

 

Don't Believe in me

君を愛して 嘘重ねて 終わりなら

”君”を愛することは、嘘をつくこと。”君”を引き留めたくて偽り続けた。でも本当の”僕”を見てほしい、本当の”僕”を愛してほしい。”僕”の嘘など信じないでほしい。でもそれでは”君”の手はつなぎとめられないジレンマ。「消して嘘」と立ち上がったはずなのに、”君”と歩くには嘘を重ねていくしかなかった。”僕”の理想はどこにいってしまったのか。

Don't believe in me

あのとき”僕”を希望だと信じて縋ってきた者たちは、今の情けない”僕”の姿をどう見るのだろう。

 

君の熱の鈍さが へばりついて落ちないままで

もしも二度と会えないのなら 月明りで抱きしめて

君の熱の鈍さ…肌を重ねてはっきりと分かる気持ちの差がぬるく刺さって抜けない。嘘ではない、僕の最後の願いも君には届かない。

 

ドアの音 せめて聴かせて

僕のもとまで届かせてくれよ

きっと、目が覚めたらもう”君”はいなかったのだろう。”君”が去っていくその背中すら”僕”は見ることを許されなかった。もしかしたら、”僕”が昨日見た夢の話をしようとした”君”も、”僕”の記憶の中の”君”だったのかもしれない。

 

”君”に手渡されたハイヒール。きっとあれは”君”が告げた最後の言葉。”僕”はその言葉の本意が未だわからないでいる。

手にしたハイヒールを見つめ、考える。

わからない。

”君”をわかろうとしてハイヒールを履いてみる。

わからない。

最後の手がかりが欲しくて、”僕”は”君”が見ていた鏡を覗き込む。

氷温

そこに映るのは、”僕”の姿だけ。

 

 

世界 ―自己との対話、そして、再生

この手に情けない生き様を握りしめ

誰にも託せぬ夢ばかり

手に入れたかった色彩はどこへ

いつしかぐらつくレゾンデートル

あやめ、氷温のダイジェストかのような歌詞。

手に入れたかった色彩…求めていた光の地図も、かつて希望であろうとした自分自身の存在意義も見失ってしまっている。

振り返るには浅い人生を 

愛おしいながらも嘆く毎日

しかしその過去が全てマイナスだともとらえていない。氷温での別れも、その後にあったであろうあれこれもフラットに受け止めている。冷静に自分を肯定する。過剰な悲観もしていない。

 

ざらし空の向こうに一話のルリビタキ

一体あれはなんだったのか

半径数メートルの距離も保てないまま 強くあれと誓い立てる夜

空の向こうのルリビタキと、ごく近くの人間関係すらままならない自分。理想と現実の距離の遠さを認めながらも己を鼓舞する。理想郷を探そうとして、最愛の人と道を違え、身近な人との距離感にも手間取る現実。

どこかで生きてる誰かに悩んで

どこかで生きてる誰かに頼って

どこかで生きてる俺も誰かで どうすりゃいいの

世界の蜘蛛の糸になるどころか他者に悩んで頼って、自分も特別な存在なんかではなくて、他者を救うなんてこともできないのではないか。

 

ただ、理想が消えたかといえばそうではない。己の熱さは健在だし、誰にも託せぬ夢として心の底でじわじわと燃え続けている。

求めていたのは愛じゃなかったか

求めていたのは夢じゃなかったか

求めていたのは魂じゃなかったか

かつて自分が歩きだしたきっかけは何だったか。光の地図はどこにあったか。

世界はここにある

貴様が世界だ

 

 

Narrative ―シン化と真理

途切れそうな心電図、意識がもうろうとする男。

”世界”の底へと潜り、綴り続けた者。原稿用紙のコートに袖を通し、自ら物語をまとう。

白雪の上 羽ばたく残像

ヤドリギの夢 どこまでも遠く

ヤドリギとは、樹木の枝に丸く球のように寄生する常緑の半寄生植物。寄生した木が落葉しても、ヤドリギは青々と茂る。

しかしヤドリギは、その実を鳥に運んでもらわなければ遠くへは行けない。冬も飛べるルリビタキと、枝に絡まり動けない自分。未だ遠くにある理想と、わずかな時間しか残されていない自分。世界は心の底にあるはずなのに手が届かない焦りから、彼は神へと語りかけながら世界の要素を拾い集めていく。

Narrative—

がくり、と落ちる頭に反し滑らかに動く左手。

委ねた瞬間に生まれたSTORY 不意に閃き突然変異に恋し

ペンを握る手を動かすのは己の意地か、それとも神か。

「あなたの風になりたい」

彼を救おうとする神の声がささやく。デウス・エクス・マキナ…神の

手で万事解決されるようじゃ面白くない、でも自分の感覚ももうどこにあるのか…まあいい、気のすむまで叫んでやろうじゃないか。

 

”あなた”と過ごした日々、”君”との別れ、己を見つめ直した日々、すべてが意味を持ち手元を照らす。傷ついても左手は動き続ける。

 

白雪の上、ルリビタキを目で追いながら、確実に”何か”を書き残そうとしている。残された時間と命を投げうって叫ぶ。

もてあます衝動 語り尽くせる者

その目で見たものを ひたすらに解き放て

未完成ながらも重ねた日々を綴る。狭間に居る者たちが彼にすがる。救われんとするのか、彼の衝動にひきよせられているのか。その者らをも取り込み、物語を吹き込み、ページのひとひらとして展開していく。その姿は人を超えたなにかになりつつある…人々に命を与える神のように。

”シン化”した彼は振り向いた先で、おそらく「真理」を見た。

そして穴におちていく。

神に近づき過ぎて堕とされたか?

否、きっと神は真理を知る者として、彼に世界を託したのだ。ラグナロク後の世に生き返り人々を導いた光、バルドルのように。

 

穴の底で、彼は目覚めの鐘の音を聴く。傍らの幼気なぬくもりと共に。

 

 

螺旋

STORYでNarrativeを見たとき、この穴の底はあやめにつながっていて、彼は円環のなかに居るのだと思っていた。でも自分の中で彼の後追いをしていくうちに、彼は円環の中にとらわれているのではなく螺旋を上り続けているのではないか、と考えるようになった。

確かにNarrativeで何かを見た男は穴へ落ち、あやめの世界に戻る。でもそれは100から0に落ちるのではなく、新たな真理に出会ったから落ちたのではないか?リスタートではなく、純粋なプラス1の世界、のスタート。

人の価値観は日々変化する。新たな価値観も生まれる。それに名前がつくまで、知るまでの時間はとても苦しい。それに気づいて自ら立ち上がる事ができるか。わかり合えなかったときに、わかろうとしたか。己の立ち位置を見つめ直すことができるか。自分を信じることができるか。

 

加藤シゲアキのソロ4作は、価値観のアップデートのさまを描いたものではないだろうか。

 

トライ&エラーを繰り返し、そのたびに立ち上がり走り転び、何かを掴んでまた試す。他者と生きていくにあたりこの作業は1度では終わらない。その螺旋は果てしなく先も見通せないけれど、自分も他人もより良く生きる上では絶対にあきらめられない道だ。

倒れても、また一段上へ。私と、あなたとで生きる世界。

その世界を諦めない背中を、私はこれからも追い続けていたい。

 

ファンタジーにさよならを。NEWS LIVE TOUR2020 "STORY"

結局、”圧倒的リアル”とは何だったのだろうか。

 

アルバムを聴いたときは、彼らの内臓を握らされた気がした

待ちに待ったライブでは、成仏できた気がした。

でも”圧倒的リアル”とは何だったのか、なんとなくふわふわさせたまま日々を過ごしていた。

 

 

 

通常版には千秋楽の名古屋公演が特典として付属している。これを見てやっと、私は彼らの言う”圧倒的リアル”をやっと理解できたような気がする。

 

 

ライブのクライマックス、2度目の「STORY」を3人は向いあって歌う。4部作の衣装に身を包んだJrを従え、NEWS・Jr・ファン・関わってきた人たちすべての物語を背負い、その重さをものともせずせり上がる。盆の上は3人の世界、覚悟と喜びと確信を湛え歌いあげる。*1あまりの気迫にこの世のものとは思えなかった。あれを見てしまったらもう、もう私たちも引き返せない。

「この4部作を終えたら、もうひとつ上のステージに行ける気がした」

まっすーのこの言葉にある「ひとつ上のステージ」に行けた瞬間が、まさにこの千秋楽クライマックスのSTORYだったと思う。

 

NEVERLAND、EPCOTIA、WORLDISTAで丁寧にファンタジーを紡いだあとの”圧倒的リアル”=STORYはファンタジーと隔絶されたものではなく、前3作の地続きにあるもので、NEWSが”真の偶像”となるための儀式だった。それが、STORYに課された”圧倒的リアル(化))”だった。

6人が4人になって悲劇性が売りだった時期、悲劇を拭いファンタジーを武器にした時期、そして今、それらをすべて背負ったまま、真に偶像として、偶像のリアルさを武器に歩き出している。

 

また振り返ってみれば、NEWSのファンタジー性を担っていたのは手越君だったように思う。常人離れしたルックス、きゃしゃな骨格、まっすぐに伸びる声、キャッチーな強がり。彼がいたからファンタジーの説得力が増したし、彼の存在そのものがNEVERLANDでたいまつを持った理由でもある。

でもWORLDISTAあたりで少しずつ同じ方向が向けなくなっているのも感じていた。もしコロナがなくて違う世界線があったとしても、STORYが彼にとって区切りになってただろうことは変わらないのだろうな、とも思う。リアルを生きていくのは苦しい。君も私も。でもどうか健やかで幸多き道であることを、心から祈っている。

 

 

 

咲き誇るシロツメクサを踏まないように足先でよけながら歩く。

先を行く3人は時折こちらを振り向きながら進み続ける。

この先が荒野だなんて言ったやつは誰だ。

足裏に伝わる緑の柔らかさ。

踏まれたくらいじゃもう、彼らも私たちも折れないよ。

 

*1:覚悟:シゲ、喜び:慶ちゃん、確信:まっすー

傲慢に血を吐く 舞台「カモメ」

笑みとともに円陣、掛け声。

「お願いします」と舞台に一礼し歩を進める俳優たち。

”神保”が扉を閉める。

『劇場』が切り取られる。

 

www.area51map.net *1

 

 

問い

神保「演劇を続けるべきでしょうか」

”神保”が問う。

神保「劇場は自由な場所ですね。何をしたっていい。じゃあ何をするか。なぜ、するか。」

神保「理由なんてなくていいと思うんですよね、本当は、なにするにしても。でもまあ色々。もろもろで必要になってくるじゃないですか。」

”神保”はなぜこの戯曲を書いたのか。なぜ続けるべきかと問うたのか。

 

「かもめ」はいつも、大事なことは舞台裏で起きる。

”神保”は舞台裏で、なにを抱えていたのだろうか。

 

”神保”が”喜劇”としたかったものとは

顔合わせの席以来、”神保”はカンパニーの面々とは離れている。

神保「飲み会どころじゃないんだよ、書き終わってないから―――」

おそらくここまでが、彼がありのままに、正直に描写したシーンだ。

 

俯瞰して見ればみんなの顔が良く見える、面白くなる、喜劇が書ける。そう言って”神保”は神保を稽古場の外に出す。

少女「書き換えるの?」

神保「いや、ほんの少しだけだよ。~そこは稽古場、演出家のいない、稽古場。」

ほんの少し、神保は台本を書き換える。

 

以降、宗ちゃんは稽古を一手に引き受けることになるが、個性派ぞろいのカンパニーは一筋縄ではいかない。ひねり出した演出も良かったのか悪かったのか判断がつかない。アンヨに飲み会後の外泊がばれた、心が離れていくのが手に取るようにわかる。フラッシュバックする母の面影。わからなくなる自分の本音、見えない他人の本音。どれが仮面か本音か。俺の見ている君はどの仮面?台本問題で瓦解していくカンパニー、劇団員だからと覆いかぶさる責任。ボタンの掛け違いが重なって腕が上がらなくなるシャツのように、宗ちゃんは「自由に跳びたい」気持ちに相反し混沌に吞み込まれていく。失踪するアンヨ、追いかけられない自分、それを責める言葉。静寂の中、チキチキと響く刃の音。

 

少女は、何度この刃の音を聞いたのだろうか。

”家”までは物語とある程度距離をとって手を叩いていた。

”喪”では「私にどうしてほしいんですか」とユノに問うも「何もしなくていいよ」とけんもほろろに突き放され葬儀で膝を抱く。

”女ME"ではノゾミに干渉するも、自分を救うために、自分の忍耐の理由のためにしかノゾミはシーンを渡らなかった。焼け落ちるカドタをよそにノゾミはミシマの胸に飛び込む。

あんまりだ、なんなんだ、125年も何を見せてくれるんだ、わたしは喜びの子ではないのか。

「飛んでる場合か。」

滑空しながら考えた、カモメである”少女にとっての喜劇”へのToDoを。そして自ら羽根をむしり、その両の脚で舞台「カモメ」に降り立つ。新しい役とともに。

 

しかし少女の尽力むなしく、仮面をつけた者たちはすれ違い、崩壊の速度は加速する。

すれ違いながら生きていく、百年経とうが変わらない人間の愚かさ、それが喜劇だとチェーホフは言い放つ。

でも苦しみが変わらないなんておかしい、作者にしかできないことがあるでしょ!

そう叫ぶ少女に告げられる真実。

 

神保「でも、結末は変えられないんだよ。」「これは俺の記憶からできた物語だから。」

 

宗ちゃんは舞台裏という現実にもういない。彼がこの世を去る、それはもう変えようのない結末。その”悲劇”を”喜劇”にするために、”神保”はこの戯曲を書いていた。

 

ずっと気持ち悪かった。

宗ちゃん「俺はもうずっとこの舞台にかけてた。ずっと準備してたから、あいつと一緒に。俳優が翼なら作品はエンジンだから。どっちも伴って初めて、遠くまで飛べる

宗ちゃんがここまで言う”あいつ”がなぜここに居ないのか。なぜ全ての責任が宗ちゃんに負いかぶさっていったのか。

稽古場で実際に何があったのかはわからない、むしろ何もなかった、何もしなかったからのかもしれないが、宗ちゃんの死という結末は”神保”に理由があった。エンジンを失った翼は飛び立つ前に折れた。少なくとも”神保”はそう考えた。だからほんの少し書き換えて、この戯曲で”神保”を稽古場から出し俯瞰で宗ちゃんを見ようとした。宗ちゃんに何があったのか、宗ちゃんは何を考えていたのか。宗ちゃんの着けていた仮面は何か。俺が見ていた君は。

それが解ればこの”悲劇”を”喜劇”にできるかもしれない。彼へのレクイエムとして。

 

少女「この後、何が起こるの?」

震える声で少女が問う。

死を止めるという目的を叶えるために、自らの意思で覚醒した少女はこの作品に降り立ったが、彼女は数多の「かもめ」の中から降り立つ作品を誤った。この舞台「カモメ」において、死は避けられない結末。

 

この後、本番初日にアンヨは帰ってくる。嵐の中舞い戻ったニーナのように。

少女「え?帰ってくるの?なんで?」

神保「それが分からないんだよ。‥‥本人のことばが必要だ。想像だけじゃなく。」

少女「これ、私の役―――」

 

神保「そこだけ書き換えてみた。‥‥どうですか。」

この一言は、愛だと思った。

 

絶望の渦中の者から、絶望を飛び続けてきた者への引導。125年飛び続けたチェーホフの子であるカモメ=少女が自身の戯曲に飛び込んできて、初めて”劇作家:神保”が少女へ敬意を表し渡すことができたセリフ。死が避けられないならばせめてクライマックスの真相をと、少女へアンヨのインタビューを託す。

 

アンヨ「多分彼らは、人前に立つ人にも日常があるということを想像できなかったんだと思います――昔の私みたいに。でも今の私は、彼らには仮面の一番外側の部分しか見えてないんだってことが分かるんです。傷つくには傷つきますけど、仮面の下の自分は傷つけられないんです。」 

アンヨ「自分の深さを知ったんです。だから私は舞台に立つことが、少しだけ、怖くなくなったんです。」

アンヨ「郵便受けに紛れてた――待ってくれてた誰かの、かもめです。」

『一緒に飛ぼう』

神保「そこは浅草九劇、2021年、12月。」

変わらない結末へ、進む。

 

”喜劇”とは、”悲劇ではないこと”。

絶望に絡めとられた宗ちゃんの死は、俯瞰で見ると美しい。自分の仮面・表層の自分を本音と誤認しギャップに苦しんだ彼は、アンヨのように深さ…自分自身のセーフハウスを持つことができなかった。深さも知らず、母に還ることもできず、トレープレフ・カドタに縋るように同化してゆくその様は美しき斑模様。宗ちゃんを死に至らしめたすれ違いや仮面でさえも、客席から見れば美しさを構成する要素となる。

しかしその美しさは他者や観客の、俯瞰からの想像がフィルターをかけた美しさだ。宗ちゃんの仮面の裏はもう分からない、想像するしかない。それでも背筋の凍るあの椅子の倒れる音を美しいと思えたなら、それは”喜劇”だ。

なんと傲慢であろうか。

この戯曲はレクイエムでもあり、”神保”にとって「もろもろで必要になってくる」もの。

神保「チェーホフは、『かもめ』という悲劇的な物語をあえて喜劇と呼ばせた。観客が、客席から俯瞰して見れば、それは喜劇になる。」

少女「どんなに絶望的な舞台でも?」「舞台上の人がどれだけ苦しんでも?」「そんなのおかしいよ」

神保「でもそうして、人は生きていけるんだよ。」

客席から俯瞰して見て、美しさを見出して、自分の中で”喜劇”と定義する。そうして人は折り合いをつけながら生きていく。

なんて傲慢な。

でもそうして、人は生きていくのだ。

 

少女は空を飛びながらも、その視点は俯瞰ではなかった。だからずっとこれを”喜劇”だと思うことができなかった。皮肉にも羽根をもいで地上に降り立ってはじめて、少女は”俯瞰”を理解する。

少女「チェーホフ、生んでくれてありがとう。私、これから生きるよ。」

もう飛べないカモメ。自らの手で幕を降ろす。

鳴りやまない時計。

客席の私はまだ目覚めることができない。

私はまだ物語のなかに居る。私の幕は、まだ降りない。

 

俯瞰=客席から”私”が見たもの

多層構造

①:「かもめ」とチェーホフ

②:実際の神保の記憶

③:②を俯瞰し”神保”が書き上げた戯曲

④:③の中で演じられる予定の劇中劇

⑤:③の登場人物たち

⑥:過去作”家/喪/女ME”

⑦:⑥を経由し③に降り立った少女と③を書いている神保

⑧:③+④+⑦を見ている観客

という多層構造で形成されている。この多くの要素と次元を巧みに組み合わせ、静かに第四の壁を破り、さらには精神世界をもさらけ出していくことで、「かもめ」および「KAMOME」ミリしら勢にはどこからどこまでが(舞台上における)現実なのかという心地よい倒錯を、「かもめ」および「KAMOME」を旅してきた者にはパイ生地のように脆くメタな多次元構造を踏み抜く危うさと快感を覚える。注意深く舞台を観察すれば、滲みはあるが層ごとにしっかり境界線は引かれている。

 

ペルソナ

仮面を見誤る宗ちゃん、憧れと実力のジレンマ*2に陥り心無い言葉にも晒されるアンヨ、べったりと笑顔を張り付けボールを拾い平等を図ろうとするいくみん、強気に稽古場で意見をだしつつ甘え方もうまいワンコ、刹那的に損得をジャッジし、少々人たらしが過ぎるゆうくん、年の功と包容力でカンパニーにも観客にも安心を与えてくれるおじい*3、わざわざ隠していたチョコレート*4を取りに来て良い雰囲気に水を差し、果てはハイパー無双タイムで大暴れするガンちゃん(スイカは割らない)、自分が習ったこと・自分のやりかたに固執*5しつつ頼る相手を常に見定めている夫人、「私が一番冷静でした」と言いながらも抽象的にふわふわと切り抜けるおっちゃん、この舞台にかけてるという割に主体性がなく、ワンコの建設的な意見を「マイナス発言多すぎ」*6*7と言い放つシュウペイ、一癖も二癖もあるキャストたちが己と互いの仮面の下を探り合う。ペルソナがテーマでもあるが、注で言及しているアンコンシャスバイアスの観点から各人を見るのも非常に興味深い。ペルソナもアンコンシャスバイアスも、情報と感情があふれてもつれる社会を生きていくための防衛本能だ。ただそれを自覚していないと、このカンパニーのように心理的安全性*8を保てず組織は崩壊してしまう。自分の人生でも思い当たるシーンが多々出てきて、感想でも共感している人が多い印象だった。

 

”多様性”は発展途上

途中、停滞する状況に痺れをきらしたガンちゃんは、演出担当を買って出て”支配する側”へまわる。ここで繰り出されるガンちゃん無双では”多様性”を掲げ女子更衣室を共用に変更し、さらなる混乱がカンパニーを襲う。

”多様性”を認識しつつも”インクルージョン*9に至らず、それどころか違いを無視し”同化”*10を迫る…という現代日本をカンパニーにピンチインさせる神保節がさく裂していて、書いてて楽しかったろうなあと思ったし、この”同化”のその先をどう見るのかな、いつか描いてほしいなとも期待している。

 

少し気になったところ

アンヨ「空に打ち上げられてしまって、私もう、戻ってこられないんじゃないか、そんな気がしました。『私は、かもめ――』

というセリフと、ラストのアンヨのインタビューの前提となりうる、稽古場で居場所を見失い、逃げ出したアンヨが夢の中で「私はかもめ、私はかもめ」と呼びかけるシーンの元ネタについて。

「私はかもめ」=ロシア語で「ヤー・チャイカ」は旧ソの女性宇宙飛行士テレシコワが地上の管制室へ呼びかけた際の言葉であり、すなわちアンヨがスマホを通信機器に見立て、「私はかもめ、現在地がわからない」と管制室…パイプ椅子に並んで腰かけ、スマホを弄る面々=SNSでの反応…へ呼びかけるも、救いの手どころか罵倒が返ってきた、なんという悪夢だろうか、、、という演出意図はともかく元ネタはどのくらい伝わっただろうか。KAMOME第一作目の『家』にて、「私はかもめ」はテレシコワの救難信号である*11、という説明はされていたが。

それでも鮮烈な光と闇と音と演出で観客の視覚聴覚と口をこじ開け、己の脳髄を喉に直接流し込む神保スタイル&キャストの丁寧な芝居の合わせ技で観客に直感的にシーンの意図を理解させる事は成功しているし、有無を言わさずイメージをねじ込んでくるところがエリア51作品を狂おしく好きな所以でもある、のだが、『喪』の受胎告知といい今回の「私は、かもめ」といい、元ネタが分かるとイナズマのような知的オルガズムを得られる仕込みであることも知っているので、サイレントに教養を要求するのもオシャレだけど、もっとそれを多くの人に伝わるような落としどころがあったらいい、もっとみんな気持ちよくなれたらもっと素敵だなと思う。わかる人に分かればいい、というなら私は神保の頭蓋骨に張り付いた髄膜のかけらをも貪るまで。

 

また中盤のキャスト同士のすれ違いや心中吐露のシーンはキャッチーで分かりやすいがやや尺が長く、長く揉めていた割にアンヨの帰還やインタビューの一言でそれをまとめていたり、ラストの少女と神保がまぜくぜになったセリフは短く抽象的で、飲み込んでも腹に落ちてくるまでに少々時間がかかってしまい、そのうちに少女が美しく幕を降ろしてしまう。個人的に”少女”とペルソナの問題にはだいぶ距離があるように見えた。だからラストの少女のセリフもふんわりと感じてしまうのかもしれない。”少女”が覚醒して自らが渦中にとびこんで、それでも救えなかったというキャラクターなので仕方がないのかな。第一項で紐解いた”俯瞰と喜劇”および”少女カモメ”の回収っぷりが、方々の境界線をじわりとにじませ融合させていたのに対し、ペルソナについてはドン!ドドン!と時速165kmストレートで投げ込まれた印象がある。パンフレットの書きぶりからおそらくこちらがメインのテーマだったと思うのでわかりやすく直球に置いたのだと受け取っている。

 

このペルソナについては、キャストインタビューなどで「『こういう人いるよな』『こういうすれ違いってあるよな』という共感を舞台から感じてほしい」と言及されており、確かに心当たりのあるシーンや言動が舞台上で繰り広げられる。あんな事あったな、こういうこと言われたよな、むしろこれ私が言ってたわ…そんな共感、そして自分だったらかもめカードに何を書くだろうか。そんな視点で私たちは物語を眺め持ち帰る。

そこから先。私はそこから先の話がしたい。

本作におけるペルソナについて、組織運営という視点から少し掘り下げさせてほしい。

 

 

 

”わたし”に刺さったもの

と、組織運営論をずらずら5000字ほど書いたが、無意味なので消した。

各キャラクターの思考と行動を分析し、必要とされるリーダーやメソッドを提示したところで宗ちゃんはもう戻ってこない。

 

この舞台「カモメ」を見て初めて味わった感覚が、”私の分裂”だ。

物語の筋と構造と、さらには宗ちゃんの死の回避の糸口を俯瞰で冷静に探す”私”。

一方で板を前に沈み、淀んだ精神世界の底から仰望する”わたし”も同時に存在した。

舞台上で吐かれるセリフはどれもわたしのもので、どれもわたしの中に存在する感情で、それに対する言い訳めいたざわめきが縄となってわたしの首を絞める。高尚にやれ無意識バイアスを自覚しろだの、心理的安全性を確保するための仕組みづくりが必要だのと説きながら、私だってやろうとしたもの、一人じゃどうしようもなかったもの、だってあの時の私はひとりだったから、だって、だってと後ろを向く。脚本・演出・キャラクターが丁寧に配置していく予感を一つずつ拾い、物語の行く先をある程度予見してしまう。”神保”と”少女カモメ”に一縷の望みを抱くも、やはり変えらない結末への心中。鳴りやまない目覚まし時計の音の中、手のひらに知らずのうちに握り込んでいた罪のかけらで自分が共犯であることを自覚する。

 

そして何より私は彼らが羨ましかった。彼らは舞台「カモメ」という虚構を生きて、現実へと帰っていった。私はどうか。現実に不満があるわけではない、でも板の上で繰り広げられた魂の対話が眩しすぎて、ニーナさながら虚構の作り手への憧れに喘いでいる。己の思考回路をさらけ出し具現化する作業は死線が見えるというが、こうやって才ある誰かの活躍を後押しして、それに自分を投影しているだけのわたしには甘美な痛みに見える。なんと傲慢な。反吐が出る。

千秋楽を迎えて10日以上経ちカンパニーの面々が次へ歩を進めているというのに、私は未だに舞台「カモメ」に囚われている。配信チケットも買っていたのに、この眼で見たものが美しすぎて、上書きしたくなくて、配信も見ず終い。この10日間ずっと脳の余剰メモリをすべて舞台「カモメ」の反芻に割いている。光も闇も音も息遣いも足音も眼差しも、鮮明に覚えている。唯一劇場で見た景色と違うのは、その場にはもう私しかいないことだ。

 

目覚まし時計が鳴っている。ホワイトアウトしていく視界の中で、私はひとり雪に膝をつき舞台を眺めている。みんな行ってしまった。”少女”ももう舞台裏を生きている。私はまだ目覚めない、目覚めたくない、まだこの舞台を噛んでいたい。舞台をのみ込んでしまった今、対象を失った奥歯は頬の内側を噛む。血の味がする。足元にできた赤の斑点を眺める。

少女「私も、何者でもなくなります。名もなき『少女』でさえなくなります。あなた方の生きる舞台裏という名の本当の舞台をまた始めます。」

待って、行かないで。

少女「どんな筋書きにも、いつかは終わりが来る。どうかこれからも、何もかもが本当に終わる最後まで、その全ての幕が無事に降り続けますように。」

うるさい。勝手に祈るな。

 

虚構と現実の狭間で、血の混じった雪玉を板の上へ投げる。

空を切る気配にわたしは絶望する。

俯瞰で見るこの”わたし”は美しいだろうか。

 

 

‥‥”わたし”はこの筋書きでは死にたくない。でも。

 

Я чайка 、

わたしは、かもめ。

 

 

 

 

 

*1:フライヤー:公式サイトよりf:id:maromayubanana:20211218002534p:plain


*2:ステレオタイプ脅威…「私は新人だし」「みんなはプロだし」

*3:インポスター症候群の傾向あり…「僕は――才能がないから。自分が思いつくことなんて大したことないんだし。」

*4:台本ではチョコレートではなく財布を取りに来ていた。必然性の高い財布ではなく、単なるおやつのチョコレートを取りに来させる演出がすごく「ガンちゃん」で大好きだ

*5:アインシュテルング効果

*6:集団同調性バイアス傾向

*7:台本を書き換えるか揉めるくだりでは唯一まともな発言をするが、ワンコに一喝され黙ってしまう

*8:何を言っても大丈夫だ!という安心感。これがあると組織のパフォーマンスが向上、組織運営において最も重要とさている:2012年 Googole「プロジェクト・アリストテレス」より

*9:包摂:多様性を尊重し、認め合い、良いところを活かすこと

*10:多様性社会は排除→同化→差異化→包摂の段階を経て発展していく。同化は違いを無視し、単一のカテゴリに染めてしまうこと。

*11:„Я чайка“ =Ya · Chaika =„here, seagull“…実際は「こちらカモメ」=「もしもし管制室」くらいのニュアンスだったが、チェーホフのかもめのニーナのセリフと同じであるという理由で、若干ニュアンスがロマンチックに装飾されてロシアのお茶の間および日本含む外国へ伝播したといわれている

胎内 ―宣誓、これからを生きる者たちへ―

演劇人コンクール2021奨励賞受賞作品、エリア51:神保治暉 演出の「胎内」YouTubeにて観ました。


www.youtube.com

 

 

概要

演劇人コンクール2021の上演審査では、課題戯曲6つのうちよりひとつを選択し、60分以内にて上演。

課題戯曲のひとつ、三好十郎の原作は青空文庫に掲載されている3時間を超える戯曲。

www.aozora.gr.jp

この課題戯曲「胎内(三好十郎作)」については、一部抜粋あるいはテキストレジを行うことができ(セリフ変更、新たな翻訳は不可)*1、神保治暉演出の胎内もテキレジ・抜粋・再編成により60分内におさめられ、それゆえに三好の原作に忠実なセリフまわしでありつつも、演出により戦後と現代に通ずるものをガツンと提示する作品になっていました。

 

・以下、三好十郎作:胎内を「原作」、神保治暉演出版を「本作」と記載。

・引用するセリフは先の青空文庫に準拠。

・敬称略

 

あらすじ

終戦直後、闇ブローカーの花岡金吾とその愛人村子は、警察を撒くためとある山奥の洞窟に身を隠す。念入りに入口を閉じやり過ごそうとした矢先、地震により唯一の出口が塞がってしまう。暗闇、薄れていく空気、尽きる食料…絶望的な状況の中、先に横穴に潜んでいた復員兵 佐山富夫とともに、生と性で葛藤してゆく。

 

”そうするしかなかった”人たち

舞台は終戦から2年後。「胎内」は”そうするしかなかった”人たちの物語である。

個人の意志など戦時下では貫くことは難しい。生きていくためにそうするしかなかった。

 

花岡金吾(演:長野 こうへい)

もともとは小さな紡績会社の外交員。しかしその会社が戦争中に軍需会社になったのを皮切りに花岡の人生は闇ブローカーへと舵を切っていくこととなる。

軍部におべっかをつかい、賄賂をつかませ女をあてがい、それで得た金で闇取引。妻との間に4人の子供をもうけながら、村子のほかに3人の女を侍らせている立派なゴロツキである。(そしてそれがこの横穴に迷い込む所以でもある)

自分の会社が軍部に下れば、自分も軍部につくしか生きる道はない。まじめに働いていては妻と4人の子を食わせていくのも難しい。当時の彼にとっての最適解である。しかし。

花岡 ……たまらねえんだ、それが。……俺あ、実は弱虫だ。気がついた。……世間で、インチキなことのありったけをして、悪党づらをして通して来たが――そうしなきゃ、やって行けなかったから、したまでで――実は悪党でもなんでもありゃしない。

花岡は実に臆病な男である。本作ではさらにそれが強調されている。情けない声を上げながら横穴の入り口の戸を閉じるし、追手に見つかりやしないかと村子がライターに火をつけることにも過剰に反応するし、物陰から佐山が出てきた折りには完全に腰が引けている。先のセリフは中盤に登場し、満を持して感たっぷりに告白されるが観てるこちらとしては「うん、知ってた…」となってしまうほど彼の弱虫はありありと描写される。

外の世界では虚勢をはれても、この暗闇のなかでは無意味。外界と完全に遮断され虚勢の象徴をぼんやりと眺めながら神にすがり、命は尽きてゆく。

 

村子(演:土屋いくみ)

母妹など6人の家族を抱えてダンサーとして働いていたところを花岡の目にとまり、彼の愛人となり*2、花岡の金で新橋に洋裁の店を出させてもらっている。この時代、女ひとりで食って食わせていくにはこうするしかなかっただろう。村子には意中の男もいたがそれもかなわず、心と身体がばらばらになりながらも生きていかねばならなかった。横穴に閉じ込められてからも、自身の精神的支柱を花岡にすべきか、佐山にすべきかを本能で見極めていく。それは決して女の狡さなんかではなく、村子が生きていくための手段だ。

本作の村子の芯にあるのは「愛」。

村子 第一、織工時代から苦労させて、もう子供が四人もあるおかみさんが、気の毒じゃないの! 私、シンから、そう思う! そうじゃなくって? (ホントの同情でバラバラ涙を流している)

村子 ……その、あんたの奥さんにしても、ホントは、やっぱりあんたを一番なにしているんじゃないかしら、もしかすると?
佐山 軽蔑していますよ、ヘヘ!
村子 いいえ、実は、その反対じゃないかしらというのよ。つまり……あんたのことを一番、もしかすると*3

村子 もっと、からだ以上の、もっと深い、もっとシミジミと深い――私にはなんといったらよいか、いえないの――いえないんだけど、たしかにあるのよ! からだ以上の、もっと深い深い愛情――愛というものは、ある! 気がついたの私、それに。

村子 ……どうしているんだろう、いまごろ、おっ母さんや、妹や、そいから新橋の店の連中?

花岡を軽蔑しながら、彼の妻に本気で同情して号泣する。妻に捨てられた佐山だが、本当はちゃんと愛されてるのでは?と諦めない。極限状態で何も考えられないと言いつつも、夢に逃げ込む直前まで家族を案じ愛を胸に抱いて命を閉じていく。からだ以上の深い深い愛情、、母性本能よりもっと根本的な、人を愛することを信じたい本作の村子はとても愛おしい。

 

佐山富夫(演:原 雄次郎)

「富める夫」という名に相反し、徴兵され前線には立たなかったものの上官に殴られながら横穴をほり、同胞がひとりまたひとりと林の中で首をくくっていくのを眺めながらまた穴を掘り、終戦後やっとの思いで家に帰るが身体は使い物にならずろくに働けない。ついでに過酷な戦争で男性機能は不能になり、妻のチヅは他に男を作って富夫の枕元で乳繰り合う始末。しまいには家に居場所がなくなり、かつて自分が血を吐きながら堀った横穴にたどり着く。

横穴では生気もなく、時に狂いながらも花岡と村子との対話を通して自身の過ちに気付く。

そして彼こそが、原作と本作で最も異なる結末を迎える人物となるのだ。

 

佐山とチヅと、世界線

「胎内」の登場人物は花岡・村子・佐山の3人しか登場しない。そのため、本作の出演者が4人発表されたときは首をかしげた。はて、役名のない高田 歩は何を演じるのか。

その答えは上演開始数秒で、下手に座る妊婦、の腹を移すモニター、という形で提示される。その後も彼女は腹をさすり腰をさすり、のたりのたりと舞台を歩き回り、花岡・村子・佐山の会話に耳を傾ける。

 

彼女はいったい何者か。

地震とともに前駆陣痛に襲われる。

佐山が妻に捨てられた話題で顔を上げ、話題がすぎればうつむく。

村子が狂って「掘ってきた!」と狂喜すればなだめるように腹をさする。

本当は奥さんは佐山のことを愛しているのではと村子が詰めると腹を抱きしめる。

佐山 ヘ! ……なぜ笑うんだ? なにがおもしろいんだ? お前が作ったんだぞ? お前がこうして生みつけたんだぞ!

狂った佐山の罵りに顔を曇らせ、その顔がモニタに大映しになる。

佐山が花岡と争うと本格的な陣痛に襲われる。

 

佐山の妻、チヅは原作では佐山のセリフで名前が出てくるだけ。しかし本作では妊婦の姿で板の上に立つ。

不能になり働けない佐山をチヅは許容できず、他に男をつくった。

それしか原作ではチヅに関する説明はない。そのためここからは演出からの推測にはなるが、チヅは佐山ではない男の子を身ごもったのではないか。また、花岡・村子・佐山のいる横穴がチヅの”胎内”でもあるのではなかろうか。現にチヅがトン・トンと腹を叩くリズムが、横穴に響く音と一致している。

チヅは他の男の子を身ごもり、3人のもがきを腰に響く鈍痛として受け止め、捨てた佐山への後悔の念にジリジリと胸を焼かれながら臨月を迎える。

 

本作は花岡と佐山の決闘、そしてこの状況を夢だと逃げようとする村子の叫び、夢ではないと諭す佐山、価値を失った銭をぶちまける花岡をもって3人は「死」を覚悟する。それと同時にチヅは子を産み落とす。産み落とすが明らかに死産だ。生への希望が断たれた瞬間。胎盤を思わせる腹帯を投げ捨てる姿が悲しい。

 

うなだれる中、村子に縋られ、愛を語る村子の言葉を聞いてから、佐山の様子が変わり始める。己と戦争、向き合うべきだったのにできなかったこと、見なかったふりをしてずるずる戦争に引き込まれたこと。それでも、自分がやっていたのは戦争ではなく”人のため”になるのではないかと穴を掘り続けていたことに気付き、再びシャベルを突き立てる。原作の佐山とは異なりはっきりと生きる事をあきらめずに行動しはじめる。*4

佐山 ……死ぬことがわかっているから、生きて行けるんだ。生きるよ、これから先も。

生きることをあきらめてしまった花岡・村子が映るモニターに、佐山はシャベルを振り下ろす。その瞬間。

 

チヅ ……あんた……!

 

佐山はチヅのもとに”帰ってきた”。

生きる事を明確に選択し世界線を飛び越え、妻の元へ戻ることを許された佐山。彼が同じく絶望を味わったチヅの救いになればいいと、思う。

 

宣誓

「目を背けるな、自分で決めろ。俺はそうして生きていく」

本作で神保治暉はそう宣誓したように感じた。

この世の中は理不尽だ。他者がレッテルを勝手に貼り合って罵って、救済してほしくても救済の権利を得ること自体がとてもとても難しくて、自分の与り知らぬところで他人の都合で物事が決まっていく。そんなのってありかよ。でもそんな世の中で生きていかなきゃいけない。世の中にずるずると引き込まれている場合じゃない、もう俺は目を開いた。シャベルを持った。神にも夢にも縋らない、自分で決めて生きてやる。

ラストシーン、佐山と花岡・村子の間には明確に線が引かれる。気づけた者と考えることを止めてしまった者。

「俺は気づいた、君はどうする?」

本作は令和を生きるもの全てに対してそう問いかけている。

 

そのほか好きな演出やふんわりとした感想など

金メダルと聖火リレー

中盤、狂った村子と花岡は幻聴を耳にして「掘ってきてる!助かった、助かった!!」と狂喜乱舞する。金メダルを首にぶらさげ何処からかトーチを取り出した花岡は、軽妙なリズムに合わせ横穴を一周し、聖火台-村子へトーチを掲げる。両者ともとても良いドヤ顔、佐山は訝しげにそんな二人を眺める。

絶望的な状況と矛盾するはしゃぎ様のふたり、感染状況と矛盾するなか開催に至ったオリンピック。

劇中と現実の”状況と矛盾する滑稽さ”を皮肉をこめて演出されているこのシーンはとても面白かった。

ちなみにこの直前、最初は「俺には聞こえない!」と半べそかいてた花岡の頭を、「ほうら、ちゃんと聞かんかい」と言わんばかりにグワっと地面に押し付ける村子の手がすっごく好き。

 

花岡のズボン、村子のスーツケース・靴・コートは赤。

佐山(とチヅ)の服は白。

村子の横穴での精神的依存先が花岡から佐山に移っていくにつれ、村子は赤いものに触れなくなってゆき、最終的には白いシュミーズ姿となる。

 

音・光

横穴に響くような音、羊水を伝うくぐもるような音、水が岩を叩くような済んだ音…本作の音は多彩で、でも自然にそこに在ってとても良い。

なにやらバネを鳴らす?楽器?を用いて演奏しているらしく??いったいどんな楽器なのか、そもそも楽器なのか?「バネを鳴らす」というワードしかわかんないからハテナだらけで偏差値低い文章になっているけれど、とにかくそれで奏でられる音がとても表情豊かでした。

また地震後に点灯するリングライト。これが点くことことで明るくなるのに逆に閉塞感が出て、光の力ってすごいなあと思いました。そして最後の世界をガラっと変えた上手の照明めちゃ好きです。

 

モニター

登場人物は少ないけれど、舞台上では常に静かに濃密な展開が起きている本作。目が足りない!と焦るけれど、「いまはここを観ろ」とカメラで撮影した映像がモニターに映されるので非常に良き福利厚生。初見の方はこのモニターをガイドに観ていくのが一番わかりやすいのではないだろうか。また、この映像が胎内を”のぞき見”しているような、人の深淵、見てはいけないものを見てしまっているような感覚に誘ってくれる。

 

チームの力

コンクール前はどの出演団体も「最優秀賞とったるで!」とメラメラしていて、SNSで各人の奮闘ぶりを見守っていた。そんな中でエリア51はなんかずっと楽しそうだった。稽古も、移動中のバスも、現地に着いたときも。そして終わったあとはみんな口々に「楽しかった!」と言っていて、あぁなんか…すっごく楽しかったんだな、と思った。なんか小学生のような感想だけど、本当にすっごく楽しそうだった。いいなあ、いいなあ。リモートばかりですっかり”対話”することが減ってしまった私には、対話を重ねて人の心に作用していくモノを作っていく彼らの姿は、とてもまぶしくて羨ましい。

エリア51はビラ配り係とか飯炊き係とか募集していませんか?当方スペアリブと豚汁と唐揚げには自信があります。え、募集してない?ですよねー。はい。

 

一言入魂

驚きとうれしさと申し訳なさとがぐちゃぐちゃになった最後のチヅのひとこと、圧巻でした。

 

おわりに

演劇人コンクール公式ページの舞台写真みると、他の作品も見たくなっちゃうなあ。オリザさん以外の審査員方の講評も気になる。来年は有観客で開催できることを祈っています。

前から好きだったけど、このコロナ禍でたくさんストプレを観るようになり、思ってたよりも私は舞台が好きなんだなあと再認識しています。

そして前はこうやって感想を書き散らかしていれば昇華できてたものが、最近インプットとアウトプットのバランスが完全に崩れてしまっていて書くだけじゃあ何ともならなくなってきました。舞台から受け取ったものが血潮になり、行き場をうしなった血を鼻血としてだらだら噴き出しているような状況です。どうしたもんかなあ…音楽とかライブとかはこうならなくて、皆と共有するとスッと肉になってくれるのですが、お芝居を観ると血がたぎるんだよな……これの解決策については2022年の課題にしたいと思います。*5

 

最後になりましたが、あらためて!

神保治暉先生およびカンパニーの皆様、演劇人コンクール2021奨励賞本当におめでとうございます!良いものをみせていただけて私はとっても幸せです!!!

 

f:id:maromayubanana:20211118001604p:plain

※本記事のアイキャッチ画像はエリア51公式ページより引用させていただきました。
デザインめっちゃ痺れる…!

 

 

*1:ほか戯曲での制約、レギュレーションは演劇人コンクール公式ページを参照されたし

*2:彼女いわく「手籠め同様」だったようだが

*3:※愛しているんじゃないかしら

*4:原作では当該シーン時は命がほぼ尽きており、村子の中にチヅを見ながら息絶えてゆく

*5:工作に熱量をぶつけてみたんだけど、なんか違った…工作も楽しいけれど。

特撮は、道徳だ -ハイヒロが提示する”私”のありかた-

人は生まれて父母祖父母そのほかの「アバババババ~」を聴き聴覚を養い、「いないないばぁ!」で歌って踊るという概念を受け取り、「おかあさんといっしょ」で物語を知る。

 

その次に相見えるのは何か。

 

そう、ニチアサである。

 

ニチアサキッズタイム、つまりはキッズのための特撮・アニメ番組が放送される日曜朝の時間帯を指す。歌と踊りと物語を知った幼子は、ニチアサで社会と道徳を学ぶフェーズへと入るのだ。

 

善と悪、正義とは何か。

スーパー戦隊仮面ライダープリキュアたちの戦いの姿を通して、社会の中の善悪を学ぶ。

 

しかしニチアサが発信するのはそれだけではない。

これから社会という理不尽な大海に放り出される子供たちにむけて、より良く生きるための倫理道徳をも説いている。

 

道徳であれば、しまじろうもそれを生業とするコンテンツである。しかしわざわざこのニチアサをフィーチャーするのは、ニチアサの道徳は「常に更新され、新たなスタンダードを発信し続けている」ところにある。親では成し遂げられない、メディアだからこそできる教育である。

 

好きなことは好きだと主張していいこと、何にだってなれるということ、賞味期限の切れた芋ようかんを食べてはいけないこと、大切なものを取り戻すために犠牲はいとわなくてもやはり隣には君がいてほしいこと、クリスマスにはシャケを食え、場面によりペルソナを使い分けることは決して悪手ではないこと、特別な力を持つからといって奉仕を強要されるいわれはないこと…

導く立場であるが、あくまで前時代の人間である親では気づくことのできない最新の「道徳」を教えてくれるもの、それがニチアサなのである。

 

 

現在絶賛放送中の「ザ・ハイスクールヒーローズ」(以下「ハイヒロ」)もまた、日曜朝の放送ではないものの、立派な道徳を説くニチアサイズムを継承する特撮番組。

www.tv-asahi.co.jp

 

主演にジャニーズJr.の 少年を据え、シナリオにゴレンジャーを絡めるという、ジェイ・ストーム東映&テレ朝が本気で挑む、スーパー戦隊正史には組み込まれない亜流戦隊ではあるものの、ニチアサの血をしっかり受け継いだ立派な特撮番組である。

1時間という長尺*1でしっかりと描くドラマ部分も丁寧に作られ、 少年ファンの若年層、往年の特ヲタどちらにも響く道徳を織り込んでいる。

 

「自分の招いた結果には自分で落とし前をつける」、1話はじめ各色ヒーローが覚醒するくだり。

「それが愛ゆえだとしても、自己の不誠実を他人のせいにしてはいけない」ため張り手を食らう2話。

「プライドは大事だが、生きていくために皆プライドを捨てる。いつか捨ててもいいが今ではない」3話。

「負けたら悲しい、でも悲しみを知ると人は優しくなれる」5話。

 

上記だけでも大人の階段を上る渦中にある若者、そして酸いも甘いも嚙み分けた大人が改めて振り返るべき道徳であるが、このハイヒロの道徳性が一番光ったのは、性自認と身体的性に違和感を覚えるトランスジェンダーを抱える桜井一嘉(いちか)が、モモヒーローへと覚醒する第4話。

 

ここからは、第4話で我々が学ぶべき道徳をとり上げてゆく。

 

 

無知、知識、想像力

世の中には色々な人がいる。

一嘉の父

「何バカなこと言ってんだ、

 (赤が欲しいといった一嘉に黒いランドセルを背負わせて)

 ほら、男の子らしくて非常によろしい」

大成*2

「あーあ、一嘉が女だったらよかったのになあ。」

モモレンジャーは女性なんだ。だからハイスクールヒーローズもそうあるべきだ」

雄亮*3

(上記セリフで一嘉が顔を曇らせ、立ち去ったのを見て)

「…大成、ちょっと黙ってろ、余計な事するな。」

(大成に「俺の何が悪かった?」と問われ)

「俺もはっきりとはわからない、イラついて悪かった。」

トランスジェンダーという言葉にほとんどなじみがないであろう、厳格な父の言葉。

知識としては把握していても、ゴレンジャーの法則と固定観点にとらわれ、身近な存在として認識していない大成。

大成よりは多少一嘉の機微に聡いが、本質まではたどり着けていない雄亮。

世の中には色々な人がいる。

多様性の定義が日々変化していく世の中で、自分のカテゴライズすらますます難しくなっていく。そんな中で他者を理解するのは、もっと難しい。

 

他者は己の柵の外にいる

一嘉は「これ以上みんなに嘘はつけない…まずはお母さんにカミングアウトする…!」と、自身がトランスジェンダーであることを母親に打ち明けようとする。

 

一嘉「お母さん、話があるんだけど…」

母 「うん、何?」

一嘉「‥‥‥‥。」

母 「彼女でもできた?」

一嘉「ちがうよ」

母 「じゃあ何?‥‥いいこと?」

一嘉「びっくりさせちゃったら、ごめんね」

母 「なんか悪いことでもしたの?」

一嘉「してないよ」

母 「いじめられてるの?」

一嘉「ううん」

母 「‥‥(ため息)」

一嘉「実は‥‥」

父 「ただいま!」

母 「はあい、おかえりなさい!(席を立って父を出迎える)

(一嘉、父を一瞥しランドセルの回想)

母 「一嘉、話ってなに?」

一嘉「あっうん、なんでもない。ごちそうさま(笑顔を作るが食卓を離れる)

 

金指君の繊細な演技も相まって、劇中もっとも胸がヒリヒリする場面。

 

一嘉はきっと、一番の味方になってくれるであろうとカミングアウトの相手として母を選んだんだろう。母も母として一嘉が大切で、期待をしていて、何かを打ち明けようとする一嘉のために展開を予想し言葉にする。

良いことなのか?の問いかけに「びっくりさせたらごめんね」と返され、今度は悪いことなのかと問う。息子に対する心配と、自衛のために。

一方、一嘉は提示される展開に落胆する。「彼女でもできた?」「いじめられてるの?」の問いに対しては露骨に嫌悪感を滲ませる。

自分の予想をことごとく否定し、なかなか話し始めない一嘉から目線をはずし、ため息をつく母。あげく、帰宅した父を優先し一嘉の話を一方的に中断する。一嘉の前には厳格な父、そして苦い記憶。とてもカミングアウトなどできない状況となってしまった。

 

母の想いもわかる。わかるけれど、よかれと思っての配慮が適切なものではなかったら大事な子の心のうちを受け止めることも叶わない。

トランスジェンダーのカミングアウトに限ったことではない。他人からは小さな悩みに見えたとしても、その重さは悩みを持つその人だけのものだ。他人が決めつけてはいけない。自分の既知の柵の中で、他者の悩みをラベリングはできない。できるだけまっさらな状態で相手と向き合わなけれなならないと痛感したシーンだった。

 

アップデート、ともに居るということ

強敵・日輪魔人に苦戦する4人の前に、一嘉が駆けつける。

一嘉「モモになりたいです!もう我慢したくありません!」

一嘉「私、モモになっていいですか?!モモが、私でもいいですか?!」

大成「‥‥‥‥俺は、どうしようもないバカだ!こんなに近くに最高のモモヒーローがいたなんて!」

大成「一嘉、俺を見ろ!ヒーローつってもすげぇバカだし、ドジだし…でも、ヒーローがこうじゃなきゃいけないなんてない!俺たちは何者でもないし、なんにでもなれる!」

固定概念にとらわれていたことに気づき、己を省みて、価値観をアップデートした瞬間。

雄亮「こっちへ来いよ、一嘉!」

直哉*4「一嘉!」

一嘉「私がモモでいいんですか?」

龍平*5「それを決めるのはお前だ、一嘉!」

大成「俺たちに本当のお前を見せてくれ、お前の痛みも喜びも、俺たちはともに感じたい!」

一嘉の意思を尊重し、”一嘉の選択した姿”とともにあろうと呼びかける仲間たち。

 

解放、そして覚醒

一嘉「私は、誰のせいでもなく、誰のためでもなく、自分のために自分を解放する!…これが、本当の私!」

自分のために本当の自分を解放する。これは従来の他の作品でも取り上げられてきた。

しかし一嘉はその前に「誰のせいでもなく」と叫ぶ。

 

誰のせいでもない。

親が自身をトランスジェンダーに産んだのではない。親が厳格だったからではない。周りが古い価値観だったからではない。周りの配慮がなかったからじゃない。誰の、誰のせいでもない。

これは”私”の話。”私”が”私”としてここに存在するから、解放するのだ。

 

一嘉「人間はたくさんいます、世界は広いんです。9割に嫌われても残り1割が味方ならいいじゃないですか。先生である前に、あなたは自由な一人の人間です。」

 

丁寧な作劇

今作はLGBTの専門家の監修を受けながら*6、丁寧に一嘉とその周囲を描写している。

一嘉

「今、不思議な気分なんだ。感じたことのない解放感に包まれてる。」

「モモになった瞬間、本当の自分を大声で叫ぶことができたような、運命に逆らうことができたような、そんな気分になった。」

「モモヒーロー…怖かったけど、気持ちよかった」

抑圧されていた感情と罪悪感の放出、カミングアウトの際の解放感というものは凄まじいものだと聞く。アナ雪の「LET IT GO」が欧米のLGBTQ界隈に猛烈な勢いで刺さったというのも、あの曲の解放感と自身の経験がリンクしたからともいわれている。

 

まれに、「LGBTQのカミングアウトは我々に配慮をしろということか!」と拒否反応を示す人もいる。

でも私は、きっとそうじゃなくて、一嘉のように「私は私なんです」と言いたいだけであって、認めてほしいだけなのだろうと上記のセリフから受け取った。「無類のオムライス好きだと思われてるけど、私は本当はハンバーグ党なんです」、と打ち明けることと大差ない。ヒーローたちは熱く熱く一嘉を迎え入れたけれど、「そうか、そういう人なんだな」と自分の先入観と異なる他者が一人増えた、くらいの感覚で受け止められる世の中になったら、きっともっとみんな優しくなれると思う。

 

特撮は、道徳だ

時代によって、身に着けるべき道徳は変わる。時代どころか日々変化する。価値観のアップデートができないままだと時代に取り残されるし、自分も他人も生きづらくなってしまう。だから私たちはいくつになっても特撮を通して道徳に触れるのだ。子供も大人も老人もともに最新の価値観に触れ、考え、自分なりの答えを出していく。なんて素敵なコンテンツであろうか。

今回とくに 少年を主演に据えたことで、特撮に触れる機会のなかった若い女性にもアプローチができた。これからの時代を生き抜く若者に、一嘉の言葉が自然と染み込んでいくのを目の当たりにして、いち特撮好きとして非常に感慨深い夏の夜であった。

 

そんな、良作ザ・ハイスクールヒーローズも早くも次が最終回!

嘘だろ?!なんでだよ!一年やれよ!!せめて劇場版はあるんだろうな?!と血の涙を流しているおたくは私以外にもたくさんいるよな・・・要望出そうぜ・・・

 

とにかくハイヒロ道徳を未履修のやつは今すぐTELASA*7で履修だ!!!今なら間に合うぞ、といやっ!!!

www.telasa.jp

 

 

 

*1:通常ニチアサもこのドラマ枠も30分、ハイヒロは特別に1h

*2:本作のレッド、5人目のモモヒーローを探す際のセリフ

*3:本作のブルー、頭脳派、1話でアオヒーローに覚醒

*4:本作のグリーン、2話でミドヒーローに覚醒

*5:本作のイエロー、3話でキヒーローに覚醒

*6:この夏一番熱い!ジャニーズJr. 美 少年主演の“本気の特撮ドラマ”「ザ・ハイスクール ヒーローズ」スタッフ座談会 - 映画ナタリー 特集・インタビュー

*7:初回登録なら15日間無料!

「女ME」によせて

エリア51演劇公演、原案:アントン・チェーホフ、作・演出:神保治暉の「女ME」を配信で見ました。

 

www.area51map.net

 

かもめは知ってた、知ってたのに見終わったあとものすごいクソデカ感情を食らってしまい、もう今日はずっと「女ME」のことばっかり考えてる。この抱えておくにはあまりに大きな初期衝動をここに吐き出しておく。

 

※IGTVでの配信1回ぽっきり、台本もnoteも読めてないので引用するセリフ・解釈に誤りがあるかもしれませんが、ご容赦を。

※以下、「女ME」役名/原案役名/役者名(敬称略)にて記載。

 

 言葉、それは人そのもの

イク/アルカージナ/土屋いくみ

「母親である前に、ひとりの人間よ!」

みんな大好き”強い女”。

女優として身を立て、息子を育て、実績を残し、世間を騒がす。

皆のあこがれの強い女性。

強い彼女だからこそ、息子のカドタにも同じ業界人として”対等”もしくは”先輩”として接している。それも彼女の愛情表現*1であったことは間違いないのだが、悲しいかな”子宮に戻りたい”カドタが求めていたそれとは異なっていた。

たいしたことない自傷行為のあとをかいがいしく手当したり、「ママのこと好き」という言葉にデレてみたり、出産ビデオをスマホに保存して息子誕生の瞬間を見返したり、彼女にも絡みつく”母親”は確かに存在した。でも冒頭の引用セリフのように、「母である前に一人の人間」である彼女は、カドタの子宮回帰を許すことはなかった。それが息子の死の間際でも。

 

アキエ/ポリーナ/植木広子

「あたしはあたしを生きたいだけなの」

 普通の主婦。繰り返す閉塞的な日々、今が自分にとって最適な状況でないことだけは自覚している。抜け出したい、でもどうすればいいかわからない。自分では動けない、だから他者に縋る。

登場人物のなかで、いちばん「ふつう」に見える。

引用したこのセリフは至言。誰だってそうだ。誰だって自分を自分として生きていきたいだけ。でもその方法がわからない。

本作の一つの解、「忍耐」という意味では一番ズバ抜けた才を持つのは彼女かもしれない。変わらない日常に身を置き、夫ではない男の子を産み、関係を続け、炎に巻かれた夫の死を不倫相手に縋りながらなく。強かな、普通の、女。

 

マエザワ/ドールン/ボブ鈴木

青春だなあ。 

 自分が可愛くて、ズルい大人。カドタの葛藤を「青春」の一言で片づけられちゃうくらいに酸いも甘いも見てきていて、他者と自己の線引きが一番しっかりしてて、他者からの干渉を避けることで自分を守る。

でもそのくせ、カドタの失敗した戯曲を「ヤバい!エモい!スーパースター!」なんて軽薄な言葉で称賛したり、

「運命は変えられますから」 

 とアキエに水素水をぶっかけたりして他者に干渉しようとする。

「人の使命が次の世代に何かを残すことなら、俺は…」

アキエとの娘を自分の実子であると公にできないうしろめたさ、ミシマやカドタ、イクやノゾミのように、何かを残すということができない己のコンプレックス*2を、怪宗教をはじめとした他者への干渉で打ち消そうとしているのかもしれない。運命を変えられることを、信じて。

 

コモリ/メドヴェージェンコ/福田周平

彼が自分・他人を測るものさしはお金や名声。自己評価がすっごく低くて、気持ち悪いことしちゃうくらいにユノが好き。

前時代的で、面倒くさくて、でもチャーミングで憎めない。

彼についてはおそらく、前々作「家KA」、前作「喪MO」で多くの事が語られたのだろう、「女ME」ではあまり深くは掘り下げられない。しかし、

「…待ってます。」

ユノに向けられたこの一言で、全身に鳥肌が立った。

彼を知るために、「家KA」と「喪MO」が見たい。

 

ミシマ/トリゴーリン/原 雄次郎

「俺には自分の意思が無い。愚図で軟弱でいつも人の言いなり。

 こんなんじゃ、誰かを守ってやることなんで出来るわけがない。

 俺は守ってくれる人から離れちゃいけないんだ。」 

売れっ子作家として「書く苦しみ」にさいなまれ、自分の作品を好きになれない、常に暗中模索。でも目に映る美しいものに手をださずにはいられない無邪気さ。ノゾミのことはさっさと捨てたくせに、ずっとイクのそばにいたのは自分の愚図さを自覚したことと、その無邪気さからイクに子宮回帰を許されたからだ。 

ミシマは無邪気にクズだ。

魅力的なものはすぐつまみ食いする。飽きたら捨てる。カモメのはく製、すなわちノゾミにときめいたあの瞬間のことだってこれっぽちも覚えてない。最低だ。

でも彼には忍耐の才がある。自らを渡り鳥であると自認し、居場所を探すことができる。だからノゾミも彼を愛した。愛してしまった。 

カドタ/トレープレフ/門田宗大

「ねえ俺を見て!俺を見てよ!」 

自己肯定感に背反する自身のアウトプット。

やりたい事と需要と才能の不一致。

ミシマに奪われた母と恋人。

もう終わり、もう終わりだ……世間にウケる、”新しいっぽいこと”をいくら書いても承認欲求は満たされない。彼が求めるのは母の子宮で光を見ることだ。

「向き合おうよ!会話!キャッチボール!」

向き合ってカドタがしたかったことは、自分を見てもらうこと。ノゾミに見てもらえればそれでよかった。

 

最期、彼は彼の言葉に火をつける。言葉は、人そのもの。

原作のピストル自殺よりも、自身に火を放つ本作のほうが何倍もむごい。

「言葉、言葉、言葉…書けば書くほど、悲しくなる」

 

ノゾミ/ニーナ/高田 歩

「気持ちに塗る薬は気持ちしかない。」 

「才能は死の前では無力、生き続けることが一番の才能なんだ」 

 自分で、自分の選択肢を削って削って削って、過去の自分を正当化するために生きる。

「カドタくんといると安心する、でも愛してるのはミシマなの」

愛してるのはミシマなの。愛してるのはミシマなの?愛してるのは、愛したいのは、ミシマを愛した過去の自分?

 

「みんな違う言葉で話すんだよ!もう疲れた、私を振り回さないで」

可能性を削って、他者とのコミュニケーションを削って、これでいい、これを選んだから、だから耐えるんだ、忍耐こそが才能なんだ。

 

自身の言葉に火をつけカドタを屠ったのはカドタ自身。

でもノゾミがカドタを蹴り飛ばしたあの時に、カドタの死は決まってしまった。「サヨナラまで2cm」、引き金をひいてしまったのはノゾミだ。

それをも気にすることなく、過去の自分の背中を押しに行く。それでいいんだ、いいんだよ、と。

 「愛してる、違いも含めて全部。わたし、燃え尽きるまで生きなくちゃ」

 

少女/原作登場せず/山崎まりあ

「あの人を救いに。」 

 ストーリーテラーとされる”少女”。

「家KA」「喪MO」を見ていないので、過去作の彼女の立ち位置がわからないけれど、私には少女が”観測者”に見えた。

 

少女はたびたびノゾミに干渉する。

「記憶は変わらない。でも意味を変えることはできる。」 

 しかし少女の尽力むなしく、ノゾミはカドタを突き放す。

 「逃げないで!あなたの物語なんだよ!

 救う命があると分かってて、どうして目を背けようとするの!」

これまでの淡々とした口調とは打って変わった、懇願にも似た悲痛な叫び。

そう、あくまでこれはノゾミの物語。

観測者として干渉できるのはわずか、木槌を振り下ろせるのはノゾミだけ。

「そうか、あの子が救えるのは他人じゃなく自分。

 …過去の自分を救って、シーンを渡っていたんだね」

「家KA」「喪MO」の世界線で彼女は何を見てきたのだろう。

「女ME」の世界線に何を賭けてきたのだろう。

 

飲み物=人は摂取するものでできている

本作は”飲み物”が重要なファクターになっている。

まだまだ子供のノゾミとカドタが飲むアイスミルク。

理想の大人が投影されたミシマが飲むブレンドコーヒー。

混ざりあうミルクとコーヒー。

”社会適合者”たちが飲む地酒・ビール・甘酒。そこにカドタは加わらない。

 

イクがカドタに要求した水。

ノゾミがカドタに要求した水。

カドタがノゾミに手渡したのは、緑茶だった。

 

ノゾミとイクで揺れるミシマは、二人をそれぞれシャンパンと赤ワインに例える。

アイスミルクを飲むノゾミが、ミシマにはシュワシュワのシャンパンに見えるのだ。

そしてシャンパンと赤ワインをそれぞれ「飲んでみる」。

このシーン、めちゃくちゃ気持ち悪くて最高だった。

 

女と男

「男とか女とか、子供とか大人とか、そういう名札がないと言葉が喋れないの?」

「あたしはあたしを生きたいだけなの」

「母親である前に、ひとりの人間よ!」

本作の女性は、とても”強い”発言をする。

 

一方、

「女性は強いなあ」

「金を稼ぐのは父親、愛情は母親でしょう。」

本作の男性陣は非常に前時代的なセリフを発する。

 

これは女のほうが意識が高いとか、進んでるとかいうことではなく、男性にも強い呪いがかかっている、ということだと感じた。

 

からまる光とロープ

脚本も演技も凄くよかったのに加え、演出とロープアートもとても良かった!

光の演出ひとつで部屋が、場所が、時間が、時代が一瞬で変わる。

中央の子宮をかたどったであろうロープアート、絡まりあう布とロープ、地続きで絡まってでも広がりのある空間がとても素敵。現場でも見たかったなあ。ひごろ日光とLEDくらいしか浴びない生活なので、直にあの照明をあびて湖のほとりに連れて行ってほしいな。

 

 

蛇足。

これは私が勝手に点を線にしてしまってるだけなんですけど‥‥

「かもめ」を3文字に分解してるところとか、

「向いてる向いてないじゃない、やるかやらないか」

「愛するということは、同じ方向を向くということなんだよ!サンテクジュペリ!」

「探すね。どうせ灰になるなら、そこがたとえ私ひとり生きる荒野だったとしても、

 …そこにあなたがいなかったとしても。」

ちりばめられたワードに、どこか一緒に駆け抜けたNEWSの臭いがするような気がして、なんか同じ釜の飯よりもっと原始的な…なんだろう、「同じ土食ってきたよな、俺たち!」みたいなものを勝手に感じてしまいました。

私がステージから受け取っていたもの、彼がステージで感じていたもの、それがこんな形で新たに世にアウトプットされる、なんか、感慨深くなってしまった。私はいつも受け取るばかりだな。NEWSも、はるはるも、すごいな。

 

 

「女ME」、本当に凄くて、一日ずっと「女ME」の事ばかり考えてた。前2作も見たいな。アーカイブあるんだっけな、調べてみよう。

 

そして冬には劇場公演もあるとのこと!!

かもめがどんな旅をするのか、ぜったいにぜったいに見届けるぞ!!!

 

*1:演劇に対しても、息子に対しても

*2:獣医という立派な仕事をしてるにも関わらず

この先は荒野か それとも希望の園か ー4つの旅の果てに―

お題「NEWS LIVE TOUR 2020 “STORY“ ー私のSTORY、私とSTORYー」

 

旅をした。

 

最初は夢の国の旅。

エントランスのスモークの甘い香り、歯車の駆動音。

急く気持ちを悟ったかのように踊る妖精。

登場曲の間奏で私たちを「愛」と呼んでくれた。

石を投げられ続けた外の世界とは180度異なる、力強いファンタジーの世界。

そして確信した歌の力は、私たちの武器となってゆく。

終わらない旅のはじまり、NEVERLAND。

 

2つ目は宇宙の旅。

そこにはたしかに宇宙船があった。

ENCOREでは本当に空を飛んだ。

無重力だって、宇宙人だって、この旅では珍しいことではなく当たり前にそこに存在した。

時空が歪んだ。危機に陥れば仲間の手を握った。

声を合わせて叫ぶ。

「HAPPY ENDING!!!!」

宇宙船も、クルーもいつでも私たちを待っている。

ファンタジーが体験として刻まれる旅、EPCOTIA。

 

3つ目の旅は仮想空間。

ひとつめとふたつめの旅は本当に体験したものなのか?

意図的にちりばめられたかけら達をあつめ、謎めいた仮想空間への興味はふくらんでゆく。

その旅ではなんでもできた。

空飛ぶ船、幻想的な月夜、バワリーで育つドラゴン。

様々なステージを動物の美しさをまとう彼らは跳び回る。

そう、彼らとともに進めばなんでもできるのだ。

果てない可能性を信じた、WPRLDISTA。

 

4つ目の旅は、圧倒的リアル。

曰く、ステージと客席の距離は穏やかに愛を交換できる距離感である、と。

その対岸にいる彼らの、ステージに立つものとしてのリアル。

起きたことをなかったことにせず物語に組み込んだリアル。

歌を歌えずとも、手をいっぱいに伸ばして心を表現する私のてのひらの光。

先の3つの旅の”はざま”を縫うように飛ぶドラゴン。

繋ぎ合わされた三角形の愛をまとい、歌い踊る彼らの、いまの”リアル”がそこにあった。

すべての現実をあたたかく受け入れた無防備なリアル、STORY。

 

 

「完結させる」というのは、大きな責任と労力を伴う。

2017年から始まり、体制の変化もあり、疫病で情勢も日々変化する中、一筋縄ではいかなかったはずだ。

でも彼らはいつも私たちをちゃんと”帰して”くれた。

現実を生きる力をお土産に持たせて帰してくれた。

STORYでも、”旅のその先”へ私たちを連れて行ってくれた。

でも今までと異なるのは、私たちがもらうばかりではなくなった事だ。

私たちは先の旅で愛を渡す術を得た。

愛の交換をして終えた旅。

この先はきっと荒野などではない。

勇気を右のポケットに。強く握りしめた希望を手放すことはもうしない。

そのあたたかい希望を手に踏み出せば、そこはきっと花咲く道になるだろう。

 

 

 

 

君に幸あれ

旅を支えたクルーの話をさせてほしい。

 

2017年の9月、「いのちのうた」の後にJr.の渡辺大輝くんへファンレターを出した。

QUARTETTOから彼を認識していたのだが、NEVERLANDでの彼は別人かと思うほどの存在感だった。

続くいのちのうたでのパフォーマンスも素晴らしく、ステージでも円盤でも彼の姿を目で追っていることに気づき、その所作の感想を往復ハガキにしたためた。

 

ミステリアの狂気、あやめの葛藤、勿忘草の人生…彼の紡ぐ表現はファンタジーの柱としてNEWSの旅を支え続けた。

STORYのチャンカパーナで、彼が2番を歌い出した瞬間は文字通り飛び跳ねた。

終盤の歴代衣装では私の一番好きなJr衣装を着ていてとてもうれしかった。

また会えたことが、本当にうれしかった。

 

2021年2月、突然彼からハガキが届いた。

返事が遅くなったことを詫び、また会えることを信じて互いに頑張ろうという穏やかな筆跡と、詳細は伏せるが彼の思いを落とし込んだ”とある作品”が添付されていた。

 

消印は2021年2月1日。

”とある作品”の作成日は2020年の緊急事態宣言期間。

作品から察するに、ずいぶんと前に退所の意向を固めていたのだろう。

そして幾度も延期を重ねたSTORYが遂に開催される運び*1となり、あのハガキを出した。

渡辺担だけではなく2017年以降とんと手紙を出していなかった私にも、値上がりした送料分の切手を貼り足してまで言葉を届けてくれたという事は、本当に「最後のあいさつ」としてハガキを出してくれたのだろう。

STORYオーラスでの彼の卒業の報を聞いて、辻褄があっていくひとひらのハガキの誠実さに胸が苦しい。

寂しい。

彼をNEWSの現場で見れなくなるのはとても寂しい。

でも彼ならたくさんのチャンスをつかんで、きっとすぐにまた会える。

これからも多くの人が、彼の表現に救われるのだろう。

新たな門出を迎える、君に幸あれ!

 

*1:STORY開催決定を知らせるファンクラブメールは2月10日

2020年の私を救った曲たち

2020年、本当に色々*1ありました。

色々あるたび新しい音楽に出会えて、音楽に支えられて、一時期「不要不急」のレッテルを真っ先に貼られたエンタメ業界が全然「不要不急」なんかじゃないぞ!と痛感した年でもありました。

 

そんな、色々あった2020年、私に寄り添ってくれた曲たちを振り返りたいと思います。

 

 

I LOVE..._Official髭男dism


Official髭男dism - I LOVE...[Official Video]

 

2019年紅白、A-Studioでジワジワ好きになって、コロナが急速に広がりはじめ、不穏な空気が流れ始めた2月ごろずっと聴いていた曲。

愛の対象をを絞らない、優しいだけじゃなく抱える葛藤も書く、でも個人ではなく”全”の曲という凄い力と包容力と共感性を持つ不思議な曲ですね。

レプリカばかりが飾られた銀河 カーテンで作られた暗闇

嘆く人も居ない 鼠色の街の中で I LOVE その証を抱きしめて

このフレーズが美しすぎて、お髭の沼にズブるきっかけになりました。

 

ドント・ストップ・ザ・ダンス_フィロソフィーのダンス


フィロソフィーのダンス「ドント・ストップ・ザ・ダンス」MV

 

女子ドル大集合番組:ラガッツェ!でキャズムの壁をブチ抜いたフィロソフィーのダンス

まさにその壁をぶち抜いた姿で彼女らを知り、メジャーデビューの瞬間に立ち会うことができました。

「セカンドキャリアアイドル」「もう腹をくくってるので」と語られる彼女らは、キャリアの長さとか年齢とかとはまた別の、不思議な貫禄がある。

それは彼女たちそれぞれがとても魅力的で、

でもちょっといわゆる「普通*2の女の子」のレールから外れたもので、

それでも「彼女たちのまま」ステージに立てているからであり、

そしてその個性を良しとしそれを望み、

そのままステージに立たせてくれるスタッフとファンのあたたかい愛がとても素敵で。

 Don't  Stop The Dance ひとりじゃ気づけない

Life Is The Dance 私は私

Just Way You Are ありのままでいい

作詞家にこの歌詞を歌わされるのではなく、彼女たちのスタイルがこの歌詞を作詞家に書かせる。そんな強いアイドルがメジャーシーンに殴り込んできてくれてうれしいなあ、もっと見たいなあ、と希望をもてた曲。

 

hope_マカロニえんぴつ


マカロニえんぴつ「hope」 MV

 6月に手越君が去って、やるせない気持ちをずっと抱えて、どうにも消化できないまま。

ぶつける先もない、胸にしまうしかない気持ち。

十三月の風が吹いて 水曜日に熱を出した

大事な時に居ないよね なんだか なんかなあ

 

ベランダから春が射した 理由もなく泣いてしまった

柔らかな嘘を貯める 何故だろう 変われない

 

悲しみのスタートライン 揃わないね

口癖まねしても 君にはなれないや

 

手を繋いでいたい 手を繋いでいたいのだ

僕らは結局それぞれだったよね

それでも それでも

君が好きだ 君が好きだ

さよならばかりの日々の中で

 

悲しい、どうして、さびしい、そしてちょっとの怒り。今もまだ消化できない。

名前の付けられないこの感情の置き場所になるような、そんな曲。

 

ビューティフル_NEWS


NEWS - ビューティフル [Official Music Clip (short ver.)]

 一度は4人で歌う音源をドラマのEDで聴いていたこの曲。

複雑な気持ちには不思議とならなかった。

It's a beautiful day 

いっそうbeautifulで

君がそのままでいるだけで

柔らかいメロディとNEWSの歌声はもちろん、ひねることなく「トン・タン・ト・タ・タン」と誠実にリズムを刻むドラム、優しい優しいベースラインがとても心地良い。

君がそのままでいるだけで。そのままで、そのままで。

 

 新型コロナウイルスが憎い_打首獄門同好会

2020

2020

 

 

ここまでしおらしく書いてきましたが、まあ詰まる所は新型コロナウイルスが憎いんですよね!アイツのせいで!アイツのせいで!!

新型コロナウイルスが憎い

新型コロナウイルスが憎い

新型コロナウイルスが憎い

すこぶる憎い

世界中のひとが抱えてるこの感情、でも負の感情だから小さく呟いていただけのこの感情を、出だしいきなりの8カウント×2でキャッチ―かつ高らかに歌い上げる。

気軽に温泉も行けないし 全然海にも行けないし

夏フェスも祭も全部中止 こんなはずじゃなかった2020

ほんとだよ、全くだよ!!

新型コロナウイルスが憎い

新型コロナウイルスが憎い

 新型コロナウイルス急速拡大により、頑張って回った全国ツアーのオーラスだけ急遽中止、赤字という血を垂れ流しながら急遽配信ライブに切り替え、オープニングで高らかにブチ上げたこの曲。

 しかし この音は止めてなるものか

やれライブは不要不急だなんだ言われる中、彼らの音はとまらなかった。いくつも曲を作って公開を続けてめっちゃカッコよかった。


打首獄門同好会「明日の計画」

ガマンした分 めっちゃ美味いもの食べたい

しんどかった分 めっちゃ楽しくカンパイしたい

つかれちゃった分 めっちゃ癒される旅したい

つらかった分 めっちゃ幸せに過ごしたい

 

まさか生活系ラウドロックで涙が出る日がくるとは。みんな思ったより重症ですよ。

だから歌おう。歌っちゃおう。

 

みんなで一緒に歌える日が、早く来ますように。

みんな頑張ったね2020年、2021年もよろしくね。

 

 

*1:新コロは言わずもがな、ブリリアンが解散したり、体調くずしたり、NEWSが人数減ったり、ライブが中止になったり、人に会えなくなったり…

*2:しかしこの「普通」は限りなく一般大衆の「理想」に近い意味を持つ

秋までに色々やるわ。

なんか秋にイベントを計画してくれているらしい。

楽しいイベントらしいので、楽しく過ごせるように秋まで色々やっていきたいと思う。

 

 

①痩せる

ステイホームで太ったぶんをこの一か月で元に戻すことはできたので、このまま続けてまだ沢山ついてる肉を落としていこう~。

なんかね、お腹にでっぷりついてたお肉の側面は落ちてきたの。正面から見るとくびれっぽく見えるけど、腹直筋の上のお肉の標高が変わらないので横から見るとDA・I・NA・SHI!

あとは二の腕と足。太ももをいい加減どうにかしなければいけない。太ももも落ちてきてはいるけど、頑固な大転子部分が居座り続けてるので、減ったとこ残ってるとこの差がすごい。ある意味メリハリボディ。頑固なとこは親の仇か!というくらい揉んでやらぁ。

ごはんは朝・昼は好きに食べてる。活動しないといけないからね。夜は19時までに野菜とプロテインとって、そっからは水分だけにしてる。最初しんどかったけど、お酒を断てば全然いけるなと気づいたのでついでにお酒もやめている。お酒飲むとおつまみ作っちゃうから。。

今のところ上記の食事のとり方とタバタ式トレーニング、たけまりさんの足パカ他各種筋トレ動画を毎日やって順調に痩せてるので、継続することとする。


【DAY1】太ももの日!高速脂肪燃焼7DAY!24時間自動的に脂肪が燃え続ける運動! | マッスルウォッチング


【地獄の9分】寝たままだけど超きつい!足パカで脚やせとお腹痩せして新生活を迎えよう!【痩せるダンスダイエット】【#家で一緒にやってみよう】

 

②おいしいプロテインを探す

いまザバスのウエイトダウンのを飲んでいますが、もっとタンパク質含有量多くて色んな栄養素入ってるお手頃プロテイン無いかな~と探しています。

 ↓今飲んでるやつ。安くてそこそこ。

明治 ザバス ウェイトダウン ヨーグルト風味【50食分】 1,050g

明治 ザバス ウェイトダウン ヨーグルト風味【50食分】 1,050g

  • 発売日: 2014/02/24
  • メディア: ヘルスケア&ケア用品
 

 ウェリナのプロテインがおいしくて良いってのは知ってるけどちょっと高い…甘くないやつでおすすめがあったらぜひ教えてほしい。

 

③いろんな音楽を聴く

今年、サブスクで髭男フィロのスにはまり良い音楽生活を過ごせているし、何より世の中にはいっぱい良い曲があるなあ、という当たり前の事に改めて気づいたので積極的に手を広げています。

数年前は洋楽ばっかり聞いてましたが、邦楽も面白いな~。髭男のおかげでリズム隊熱が再爆発しているので、リズム隊がシブい曲がささりがち。

マカロニえんぴつ、夜の本気ダンス、omoinotake、Koochewsen、打首獄門同好会が最近の気になるバンド。サブスクのライブラリをどんどん増やすぞ~。

 

④フェスの準備をする

色んな音楽を聴いているとフェス行きたい欲がグイグイ上がってきたので、来年のメトロックに照準を合わせ、ちまちま準備していこうかな。

梅雨に入ったこともあり、レインポンチョを新調しました。

www.amazon.co.jp

これ買ったの~かわいい!でも届いたばっかりで変なにおいしてるから今まさに干してる。玄関がくさい。

あとは帽子とスパッツとボディバッグかな。あと何がいるかな。一緒に行ってくれる人だな。腐れ縁フレンズを一年かけて口説くかな。

 

⑤カレーのバリエーションを増やす

最近玉ねぎとスパイスの扱いに慣れてきたので、チキンマサラ以外のカレーも作れるようになりたい。個人的にはインド・ネパールのカレーよりスリランカカレーの方が好きなので、そっちに手を出してみようかと画策中。

でもな~私ナンを焼く天才でもあるんだよな~~~スリランカカレーは米なんだよな~~~~ということでどっちも作るわ。まずはアショカさん*1に弟子入りしたい。

 

 

私の歩く荒野はきっと楽しいところだから、楽しく荒野に種をまいて楽しく秋に収穫したいな。そりゃあ悲しくないわけじゃないけど、その気持ちも否定しないけど、涙の再出発という物語性よりも、地続きの一歩を踏み出したいなあ。

 

ああ、お腹すいた。

明日は何を食べようかな。

 

 

*1:アショカレーまっっじで美味しいから是非おとりよせして!!

www.47club.jp